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2007年12月18日

パリは燃えているか

無いこと無いこと言われて、特定の個人の特殊な個人的欲求と推測される動機によるものが私の意図ということになってるのは決して気分の良いものではない。
その特定の個人が何も無いところから何物かを創造するのはいつもの事ながら、今までそれはその特定の個人について多少なりとも理解している人たちのだけの輪の中であった。
しかし今回のようなパブリックな場でのそんな出来事は、その特定の個人と土偶をよく知らない人たちは当然私が意図した出来事であると本当に思っているだろう。
人の数だけ真実があるという見方もあるし、言った言わないの話は不毛でしかない。しかも、釈明するのもバカらしく、釈明すればするほどバカらしさの上塗りになる事でもある。だから釈明はしなかったし、今もするつもりは無い。真実は我にありと念じつつやれやれと首をすくめる他は無い。それでもこれはあんまりである。と私にとっての真実はそう告げる。
仲間内ならネタで済む事も別の関係性ではちょっと洒落にならない事もある。正直「助かった…」と言う他は無い。まあいいだろう。この事が私の意図によるもので無いとしても、全く私に非が無いわけでもないのだから。私が学ぶところが無いわけではない。
まだ大丈夫である。と思う。しかし、何事にも程度と限度というものがある。
なによりも、何処の世界にも誰の世界にも自分だけは、我々だけは特別という前提は絶対に成り立ち得ないのを忘れてはならないのである。
と某氏の炎上と燃料投下に誘爆してみた。


話は変わる。
我々は世界にある色々な事象を理解したいと望みつつも、実際我々の周りの世界には理解を超えたものが数多くある。むしろ理解できるもののほうが少ないと言ったほうが良いだろう。
理解し得ない欲求から端を発する理解し得ない動機に基づく理解し得ない言動は、理解しようとするからこそ混乱が起こるのであり、理解しようとする試みを放棄していればなんと言うことは無い。それが自分の利害と対立しない限り、私には係わりの無いことだからだ。
しかしながら、降りかかる火の粉は払わねばならないのもまた事実である。善意からであろうが悪意からであろうがそのどちらからでも無かろうが、火の粉は火の粉だし何らかのトラブルは何らかの方策によって除去しようと、あるいは解決しようとするのは当然である。
そして、こちらにとって脅威になるとしか思えないものは、本当の脅威になる前に先制攻撃しておくべきだとする「先制的自衛権」なる考え方もまたある。
また話は変わる。
迷惑をかけ続けて、あるいは相手を拒否し続けて、どれだけ受け入れて許して貰えるかを物差しとするような人間関係は好みではない。またお互いのダメさ加減や弱さ加減を是認し合うことでバランスを取って成り立つ人間関係も好みではない。さらには相手の寛大を前提として成り立つような関係も可能なら避けたい。それらは関係性の前提を断ち切る事が出来ない肉親同士で成り立つ荒業である。というかそんな人間関係は子供から大人になるにつれて脱するべき関係性であると思う。
「弱さ」はそこに溺れて開き直る為にあるのではなく、自らを謙遜にさせてそれを克服しようと試みることで自分を高める為に使うべきであると、個人的には思う。あくまで個人的に。
我々に理解できる事は余りにも限られている。理解し得ないものが、理解しようと骨折るだけの価値があるのかどうかを見極めるのはとても難しいし、色々なパワーバランスの中で怪我をせずに世界を歩くのはとてつもなく難しい。だからこそ人はなるべくギャンブル性が少なく有用性と即効性の高そうな真実を求めようとするのである。
それは求める真実のレベルの差ではなく、考え方の違いでしかない。と思う。
そして、無からにしろ有からにしろ、何物かを創造するならせめて意義のあるものを作りたいし、作られるところを見たいと思った。

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