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2015年10月6日

ベートヴェンの「嘆きの歌」はチープであることに意味がある。

先日手足口病になってとても苦しかったと言う話を書いたけど、やっと回復して普通の状態に戻ったなと思ったら気管支炎になった。

寝転ぶと痰が詰まって息が出来ないので寝ることが出来ず、辛いのに寝ることが出来ないというかなりきつい状況。
そして少しでも動くと呼吸量が増えて息苦しくてたまらないので、座ってゆっくり息をしている以外に何も出来なかった。
もう殆ど強いられた座禅みたいなものである。
二日目になってちょっと楽になったものの、やっぱり動くと辛いので座っていることしか出来ず週末の土日は二日間ほとんど寝ずに古い本を読みまくった。

以前読んだはずの村上春樹 『約束された場所で―underground 2 』でインタビューされているオウム信者に胸が痛くなるほどの親近感を抱き、長野まゆみ『テレビジョン・シティ 』で本当に本当に胸が痛くなった。

ここ最近、というかかなり前から余り昔のことを思い出すことなんかなかったけど、睡眠と呼吸が苦しい状況で昔の本を読んでいると、その本を読んでいた時の昔の感覚がよみがえって来る。
殆ど人生を諦めかけた瞬間に何かの拍子でふと浮かび上がったものの、まだその幸運が信じられずその諦めの残滓が残っているような、そんなあの感覚だ。

大抵の人がそうであるように、私にとっても特定の音楽や本はある特定の場所や状況や人に密接に関連付けられており、呼吸困難と寝不足といった肉体的に追い込まれた状態で読んだ昔の本がそんな感覚を呼び戻したのだろう。
半ばそんな感覚の残ったままで、ちょうどそんな時代に私が大好きになり、それから今までずっと世の中で最も美しいもののひとつだと思い続けているベートヴェンのピアノソナタの31番と32番を、今日は真正面から没頭してひたすら聴いていた。こんなに必死に没頭して音楽を聴いたのは本当に久しぶりだ。

ちょっと細かい話になるけど、この31番の第三楽章の冒頭の後とフーガーの後にワーグナーに絶賛されたという、いわゆる「嘆きの歌」と呼ばれる旋律の部分があるのだが、全体としての同曲の余りの美しさに引き換え、この部分は余りにも感情的で大げさ過ぎてチープに感じられて、昔から「嘆きの歌がなければ完璧なのに」などと思っていた。
しかし、今日改めてじっくり聞いた時に、これは逆にこう「チープでありきたり」であるからこそ意味があるのだとふと思った。
本人にとってどれだけ絶望的な嘆きであったとしても、それをはたから見れば大抵は感情的でチープでありきたりな物語にしか見えないものだ。
我々にとってそれがどれだけの嘆きであったとしても、それは全体としてチープでどこにでもあるような嘆きでしかない。
それは自分自身から特殊性や特別性を奪うものであるかもしれないけど、更に突き抜けてしまえばひとつの救いになるかもしれない。

そう考えると今まで気に入らなかった「嘆きの歌」がとても愛おしいものに感じられる。25年ほどこの曲を聴き続けているけど、今になって捉え方がガラッと変わるとは自分でもびっくりである。

この31番と32番はあらゆる辛酸を舐め苦しみぬいた晩年のベートーヴェンが若いころのように運命や苦悩に対峙して抗ったり反抗せず、自分のあらゆる状態を受け入れて昇華してしまうような美しさがある、というような感じの事を一般的には言われるわけであるけど、そんなベートーベンの苦悩ですらチープでありきたりのものであるならば、我々のものなどいかほどのものであろうか。
とそんなことを思った病み上がりの月曜日であった。

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