「岡崎京子展 戦場のガールズ・ライフ」@伊丹市立美術館 岡崎京子とニーチェとバタイユとフェミニズム

伊丹市立美術館で開催されている「岡崎京子展 戦場のガールズ・ライフ」に行ってきた。

結構マイナーな展覧会らしくあまり情報がなく、この春に世田谷文学館で開催されてから、夏に私の行った伊丹市立美術館と冬に福岡県で開催されるだけであるようである。

この展覧会では岡崎京子がまだ子供時代だった頃に戯れに描いたイラストから、学生時代に掲載された作品に始まり、書籍化されている代表作の原画だけではなく、単行本化されていない原稿やファッション誌から情報誌からサブカル誌からロリコン漫画誌までありとあらゆるメディアに載ったマンガや文章といったものも展示されていてその情報量は膨大だった。
岡崎京子の生い立ちから作品群やその時代背景や解釈や文化的ポジションまでを網羅する、岡崎京子を知らない人にも楽しめるような構成でありつつも、ごく最近に出た数冊を除いて岡崎京子の書籍化されたほぼすべての作品を読んだ私のような密かな岡崎京子ファンにも十分満足できる良い企画展だった。

展覧会そのものは大きく4セクションに分けての展示がなされており、それぞれ、
SCENE1が「東京ガールズ、ブラボー!!」
SCENE2が「愛と資本主義」
SCENE3が「平坦な戦場」
そしてSCENE4が「女のケモノ道」
というテーマになっている。
一見時系列で彼女の作品群を区切ってテーマ分けしているように見えて、実は発表された時代ではなく内容によって区切られおり、なるほど見事な起承転結のこのテーマ区分とセクション分けそのものが一つの岡崎京子解釈だなぁという気がする。
サブタイトルとなっている「戦場のガールズ・ライフ」、これこそを岡崎京子が描こうとしていたものとして見るスタンスだな。

SCENE1でブランドや飲食店や音楽などの固有名詞が飛びかう会話を交わしながら軽く生き抜く様を描く『東京ガールズ、ブラボー!!』で情報過多で欲望に翻弄される都市生活を営む少女の日常を描き、
SCENE2と同じ「愛と資本主義」がテーマの「マンガが文学になった」とまで言われた『pink』で描かれる、食費のかかるワニを買い、大好きなピンク色のものを買い漁るために昼はOL夜はホテトル嬢という生活を楽しく営む女子は、資本主義社会に属しながらも何処か違う形で組み込まれることでささやかな違和感を表現しているように見える。
SCENE3ではバブル経済が崩壊した不穏な社会情勢の中で、ゲイである自分と世界に折り合いを付けることのできない少年と、過食嘔吐を繰り返しながらモデルとして活動している少女と、どこにでもいそうな平凡だけどそれなりの不安と問題と葛藤を抱え込んでいる少女の三人が河川敷に打ち捨てられた人の死体を眺めることで精神的安定を保つ様を描く『リバーズ・エッジ』を「平坦な戦場」と表現し、
そして、SCENE4ではそんな女子達が歩く「女のケモノ道」が描かれる。
全身を整形してサイボーグのように完璧なルックスでもって芸能界をサバイバルしようとする「りりこ」の物語『ヘルター・スケーター』のようなアグレッシブな路線だけでなく、
一方で時代的にはpinkと同時代に発売された、仲良し女子3人組の面白おかしく語られる会話のみが描かれる『くちびるから散弾銃』の限りなくソフトで軽い路線ももこのセクションに入っていて感心する。

岡崎漫画に登場する主人公は大抵誰も魅力的で美しいけど、そこに出てくる男性はほとんど例外なく魅力が無いと言い切ってしまっていいと思う。
彼女の描く女子は恋をしたり男を利用したりしつつも、彼女の描く物語の根本のところで男性は必要とされておらず不在であるように思える。
そういう意味で言えばこの展覧会での岡崎京子の描く「女のケモノ道」や「戦場のガールズ・ライフ」はフェミニズムのひとつのあり方であると捉えることができるかもしれない。

彼女の作品群は映画、小説、音楽、現代思想からの引用が多い。
かと言って彼女の登場する人物がそういった傾向を持つのかといえばそれは全く逆である。
登場する人物は基本的に何かに熱中することがなく、何かを創造したり何かを解決したり何かを考えたりはしない。
スポーツや創作活動や何かしらの「道」に邁進することももなく、過食嘔吐だろうがLBGTだろうが家族の不和だろうがそれらに向き合ったり折り合いをつけたりせず、それらについて深く思考する素振りすら見せない。
みんななにかしらちょっとした悩みと違和感を抱えながらも何も考えずただ消費者原理に首まで浸かり欲望のままに流されてゆくだけだ。
彼ら思考する主体ではない消費活動だけを行う登場人物から浮かび上がってくる現実のその様がリアルに感じられとても素晴らしいのだ。
ただの小難しい文学かぶれの漫画と彼女の漫画が根本的に違うのはこの部分にあるように思う。

そして彼女の作品にはその文学性に相応しい美がある。
今まであまり触れられることも言及されることもなかったけど、
ある男が好きでたまらない女子大学生がが体の関係だけでいいからとその男子に迫り、夏休みに一週間彼の性的な奴隷にまでなって結果的にフラレてしまう『私は貴兄のオモチャなの』という作品が私は大好きだ。(ちなみにこの展覧会ではこの『私は貴兄のオモチャなの』の主人公星子がステッカーになっていてとてもびっくりした。)
若いころの恋愛のあまりにも極端な形が、男性側でなく女性側の目線で描かれていることで、オッサンである私は過去に身近に接していながらも決して理解できなかった世界の一端に触れたような気になった。
最後の1日で恋人として付き合うことを諦める代わりに公園でデートして船に乗るシーンはポランスキーの「テス」を思わせるし、
そして何事もなかったように家に帰ったあとの日常の一コマを描いたこの物語の最後の方のシーンもとても美しい。

若さゆえの奇跡の美しさをただ無闇に消尽させる様はまるでバタイユではないか。
このバタイユ的な美しさこそが岡崎京子本質ではないだろうか。

ストーリーとしてはブラックで醜くて重たいものであるけど、全体としてとても軽いトーンで貫かれている。
変に問題提起も告発も暴露もせずただ淡々何も起こっていないようにすら見える。この軽やかさが岡崎京子の持ち味だ。

全てを賭けた恋に絶望的に破れ、体も心も文字通りボロボロになって生還したものの、結局何も成就されず解決されなかった物語のラストとしては、
この最後のページはあまりに軽やかだ。

岡崎京子は

「いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。
いつも、たった一人の。一人ぼっちの。一人の女の子の落ちかたというものを。」

と書いている。

一方でニーチェはツァラトストラにこう語らせている。

「人間において愛しうる点は、かれが過渡であり、没落であるということである。」
「わたしは愛する、没落する者として生きるほかには、生きるすべをもたない者たちを。それはかなたを目ざして超えてゆく者だからである。わたしは愛する、大いなる軽蔑者を。かれは大いなる尊敬者であり、かなたの岸への憧れの矢であるからだ。わたしは愛する、没落し、身をささげる根拠を、わざわざ星空のかなたに求めることをせず、いつの日か大地が超人のものとなるように、大地に身をささげる者を。」

まさに岡崎京子に登場するキャラクターのことではないか。
岡崎京子作品は、ニーチェ目線でバタイユ的な美を描いているのだ!

と話が大げさになってきた所で今日のブログは終わり。
無闇に長い上に、「岡崎京子展」じゃなくって「岡崎京子」の話になったな…

ということで、展覧会後のお昼に近くで食べたパスタとピザが美味しかった。

あまりに熱中しすぎて昼前に入ったのに出てきた頃にはとっくにランチタイムが終わっている程の充実した展覧会、
「岡崎京子展 戦場のガールズ・ライフ」@伊丹市立美術館 は9月11日(日)までだ。急げ~

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