ジョージ・オーウェル『1984年』/清清しいほどの暗さと救いの無さ/全体主義は分配の問題か?

amazon ASIN-4150400083ジョージ・オーウェルの『1984年』を読んだ。
1948年の出版以来、文学だけに及ばず、音楽、映画、絵画とあらゆる方面に多大な影響を及ぼし続けている名作である。
2009年にハヤカワepi文庫から高橋和久による新訳版が出たが、私は1972年に最初に出た新庄哲夫によるハヤカワ文庫の旧訳を読んだ。
ストーリーとしては、
常に世界を三つに分けた戦争状態にある世界で、ビッグ・ブラザーなる指導者の下、ありとあらゆるところに存在する監視スクリーンに囲まれながら、
過去の記録を現在の政府の発表にあわせて改竄する仕事をしている主人公が、あることを切欠にして政府の矛盾に疑問を持ち始める。
そして、伝説の反体制的な組織への憧れと恋愛という反社会的な感情を二つ抱くに及び、主人公は恋と反政府思想に没頭してゆく。
という感じである。
完全な全体主義による管理社会の中、政府の人間である主人公がその社会構成に疑問を持ち、体制に反旗を翻すという物語、いわゆるディストピア小説の古典的で典型的な内容で、この本はそういった類の今となっては小説や映画やアニメで使い古された感のある世界観を初めて世に出した。
『指輪物語』が「剣と魔法の世界」の基礎的な世界観を構築したように、この本は全体主義による管理社会とそれに抗う個人なるディストピアな世界観の基礎を築いた小説である。
この本の感想を一言で言うと「清清しいほどの暗さと救いの無さ」ということになるだろうか。
本の中での肯定的な何かしらは、すべてそれらを根底から否定されるために存在しているといって良い。
社会全体のテクノロジーとエネルギーのをすべて監視と管理のために使う全体主義の社会で、「個人」が思い、願い、抱き、行動しうるあらゆることがどれだけ社会にとって取るに足らないものであり、まったくの無意味にしかならないのをこれでもかと描いている。


自分自身の反社会的思想に対しての主人公の
思想犯罪は死を伴わぬ。思想犯罪は死そのものだ。」という認識、
そして、反社会的思想を頭の中に留めずに実際の行動に移そうとする理由についての、
消極性よりも積極性を好むと言う理由だけからさ。今僕たちの演じているゲームでは、僕たちの勝利と言うのはありっこない。ある種の敗北の方がまだましだという、たったそれだけの話さ。」という考え方を読めば、主人公がどれだけ絶対的な管理社会に対して自分自身が小さな存在でしかないと確信しているのかが良く分かるだろう。
同じようなディストピアな管理社会を描いた映画で私が好きな映画の中に「未来世紀ブラジル」がある。
「未来世紀ブラジル」は「1984年」とストーリーも設定も全く違うのに不思議ととても印象が良く似ている。
また同じようなディストピアな世界を舞台にした私の好きな映画に「リベリオン」があるが、これはもうディストピアの世界をコントラストとした完全なネタ映画であった。
「未来世紀ブラジル」も「リベリオン」もある種のギャグ映画として成立しているからこそディストピアの世界を面白く見ることが出来るのだろう。
例えば、同じディストピア系の映画「華氏451」が映画としてはつまらなかったのは、全体主義社会の描き方が不十分だったのは勿論、そこに笑える要素が皆無だったからではないだろうか。
圧倒的で絶対的な絶望とか無力感を前にすると不思議と「笑い」が込みあえげてくるものであるし、そういう意味でディストピア映画には笑いが良く似合う。
しかし「1984年」に「笑える要素」は皆無といって良いと思う。
「未来世紀ブラジル」には救いは無かったけど笑いはあった、「リベリオン」には笑いと救いの二つがあった。しかし、『1984年』には笑いも救いもどちらも無い。
この笑いも救いもない状態でこの作品がここまで人々に読み継がれて影響を及ぼしてゆくのは、読む人がそこに圧倒的なリアリティーを感じるからであろうとしかいいようが無いと思う。
ただ、現代社会と殆ど変わらないではないかといわれるような、管理社会と管理社会の個人に対する扱いのグロテスクさを描くだけでなく、自分と家族との関わりの思い出がどのように人の心を支え、また恋愛が個人とその世界の見方をどのように変えるか、という個人的な問題も描かれているところがこの小説の大きなポイントに一つであろうと思う。
主人公の恋愛が反社会的であるからこそ恋愛と反社会的な感情を燃え立たせ、失った家族を愛しく回想することが反社会的であるからこそ、人間としての思いと反社会的な感情を抱く自分は正しいと思うことが出来る。
このあたりの心理的な構造が実に良質な小説的エッセンスとなっているのだ。
ネタバレになってしまうので詳しくは書かないが、
主人公の最後の姿に圧倒的な絶望と無力感を感じる人が殆どだろうし、
また、主人公の最後の姿を現代社会に生きる人と重ねて見る人も多いだろう。
一番「それ」を否定していた人が、強制される事無く自ら望んで一番「それ」を全肯定するようになっている。というその状態が、この本の中で一番の救いの無さがあるわけであるが、
しかし、それは主人公を外から見た場合の話で、例えそれが当初の主人公が一番否定していた状態であったとしても、主人公自身はそんな自分自身の姿と自分の運命を受け入れて幸せに思っていることもまた真実である。
全体主義なるものが、個人個人が自ら望み、自ら考え、自らの行動によって自らの幸福を自由に追求するのを禁じ、大多数の人に対して小さな幸せだけを強制的に与えて、感情に捌け口を与えて特定の方向にコントロールしようとするのは、言ってみれば世界全体での絶対量が限りなく低下した幸福の再分配の問題であるのかもしれない。
いくらでも無尽蔵に世界から幸福が溢れてくる状態ならおのおの個人が幸福を追求すれば、誰もがその求めや努力に応じた幸福が得られるだろう。
しかし、世界の幸福の量が低いレベルで一定である場合、特定の人が多く幸福を得えてしまえば、他の人はいくら望もうが努力しょうが得られないということになる。
そういう状況に陥らないように、少ないながらも幸福が平等に分配されるようにコントロールするのが全体主義の根本の考え方といえるだろう。
幸福を無尽蔵の荒野で狩る獲物と捉えるか、限られた数しかいない釣堀の魚と捉えるかの違いかと言えるかもしれない。
個人として幸福を捉えた場合多くの人は前者となるであろうが、社会や政府として見れば後者とならざるを得ないような気もする。
現代の不況下にあえぐ国々での労働問題や経済問題に関してもこういった全体主義的な政策というのは、ただの奴隷化だとか搾取というのではなく、圧倒的に絶対量がなくなってしまった雇用だとか資本だとかの何かしらを再分配するためには、ある意味ではフェアネスを突き詰めた結果なのかもしれない。
と主人公のようなこと考えたが、
結局はそれは「天元突破グレンラガン」の螺旋王ロージェノムと同じ考え方ですな。
ということで次のエントリーは「天元突破グレンラガン」について書こうと思いますぞ。

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