卒業した君へ / 戦え欝と戦うな

卒業式ということで仕事は休みだったが、朝早く起床して昼までコードを書く。
早い目の昼食を取って友人と卒業する面々を見送りに職場へ行った。
この場所でのこの繋がりをもつこの世代の最後の生き残りである我々である。
今まで彼と何人の卒業生を見送ってきた事だろうか。後になればなるほど、見送ってくれる人が少なくなるなと、ふと思う。
自分が卒業した時の事を思い出し、あの時と比べて自分がどれほど進歩したのだろうと思う。
あの時持っていなかったものを今持っているけど、あの時持っていたものはすでに無い。人生なかなか皮肉なものである。
殆どのものは流れ去った。流れ去らなかったものでも殆どのものは原形をとどめないくらいに変わってしまった。
それでも、変わらないものも確かにある。ゼロではない、でも虚数であるというオチでもない。
それは実数として、観測や測定できるものとしてそこにある。
卒業した皆様、特にここをいつも見てくださっている皆様。謹んでお祝い申し上げます。
この卒業があなたにとって良いものになる事を願っています。


この年まで何とかこういう生き様を潜り抜けてきて、何とか死なずに生き残っている状態である私が、前途洋々たる諸氏に向かって特にはなむけるべき言葉はなく、ただこういう風になるなよ。としか言えないのが残念ではある。
どのようにすればこのようになってしまうのかは、このブログを読めば良くわかる。
このブログに書いてあるような事を考え、行い、実践すれば、あるいはそういう願望を持って進んでゆくとこういう風になるわけである。
それははたから見るよりも暗くて狭くて痛くて寒い道でもある。はたから見るとそうは見えないどころか楽しそうに見えてしまうだけである。しかし、楽しそうに見せるのも芸の一つである。
くれぐれも、諸氏がこのような袋小路的人生に迷い込んでしまわない事を願っている。
この袋小路的人生を爆走する私から言わせれば、人生とは絶え間なき欝との戦いである。勝てる見込みのない戦を日々戦い続ける日常である。
殆どの場合、金、地位、名誉のあるなしよりも、欝のあるなしが主観的人生の殆どの部分を決する。
人が金、地位、名誉を求めるのはそれらがある種の欝を緩和してくれるからではないか?とすら私は思っている。
しかしながら、三十数年間欝と戦い続けてきた私に言わせれば、欝に勝つ事は不可能である。
この先何十年戦い続けたところで勝利の瞬間は訪れないであろう。
つまり欝とは戦う相手ではない、脅威ではありながらも外交努力によってなんとかバランスを保って付き合ってゆくしかない相手ではないかと思う。
欝とは一気に侵略して制圧したり、ミサイルを撃ち込んで機能停止させたりする事は不可能な相手である。どんな攻撃も確実に数倍になって帰ってくる。最悪の場合その反撃で人命すら失われる。
欝とは冷戦時代のNATOとWTOのように、ずっと隣人として付き合ってゆかざるを得ない隣国なのである。
しかしながら、逆説的ではあるけど、欝と付き合うだけの人生だけでは味気なさ過ぎるのもまた事実である。
すべからく「何かとの戦い」は「何かを目指しての戦い」であるべきである。
諸君が戦ってまで勝ち取りたいと思う、人であれモノであれ状況でもありえる「何ものか」をこれからの人生で見つけることが出来るのを、草葉の陰から願うしだいである。

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