ポール クルーグマン 『クルーグマン教授の経済入門』 (訳 山形 浩生 )
この間の某銀行レディとの会話と上司との対話でちょっと経済に興味を持ち始めたところで、やたらと評判の良い、しかも山形浩生がべた褒めして翻訳までしているこの本を読んでみることにした。
著者のポール・クルーグマンはその筋ではとてつもない著名人であり、スタンフォード、MIT、プリンストンの教授を歴任し、大統領経済諮問委、IMF、世銀、EC委員会のエコノミストを務める、ノーベル経済学賞確実との下馬評も高い、錚々たる経歴と実力を持つ、様々なジャンルに及ぶ経済学者である。
そんな彼が今からちょうど十年前の1997に経済学と経済の知識の殆ど無い一般読者の為に、マクロ経済学と当時の時点でのアメリカの経済について著したのがこの本である。
そして冒頭で述べたように、訳者が山形浩生である。
彼の桃尻口語翻訳に苦言を云々する人が多いけど、彼の訳が原文のトーンに近いらしいという事は度外視しても、ネット上のブログや草コラムに慣れた目には、彼の文章が大して馴れ馴れしいともふざけきっているとも思えなかった。
そしてなにより、原題は『The Age of Diminished Expectations』(期待しない世代)と、クルーグマンがある時点でのアメリカの世代を、彼らが経済に対して取る態度とかリアクションから評した言葉である。
このある国のある一時点のある集団を指す言葉であるこのタイトルを無視して、ある時代の具体的なモデルケースの一例として固定し、時代からの風化と陳腐化の勢いを削ぐ事である種の普遍性をもつ経済の入門書と位置づけしてしまったのは訳者の功績だろうし、この本が日本でもよく売れたのはこの戦略ににあったのだろう。
たしかにネット上でもどこでもすこぶる評判が良い、文庫本が発売されるくらいの勢いであるくらいで、経済音痴というか経済文盲と言っていいような私でも良くわかった。(ような気になった)
巷に溢れるビジネス本の類に目を通したりするのを、まだこっそりエロ本を読む方がましなくらいの浅ましい恥ずべき行為であるように思い、経済学を金勘定と金儲けについての学問として下品なものであるかように思っている、上品な(を自認する)人が私の周りは結構いる。(当然私もそういう傾向は大いにある)
しかしながら、そういった上品な(を自認する)人達であればあるほど「知」の領域のレベルで下品な部分に首を突っ込むのには意外なほど寛容だったりするわけで、これは結構面白い現象というか習性ではないか?と私は常々思っている。
乱暴に言ってしまえば、ドメスティックバイオレンスやオタクや少女売春の当事者であることは恥ずべき事であっても、それらの研究者である事は恥ずべき事ではないという論理ですな。
その論理から言えば、たとえ金勘定とか金儲けがどちらかといえば下品である部類に属する事であると仮定しても、それらを研究する事は下品ではない。という事に当然なるはず。
別にそういう言い訳をしなくても、読む人はビジネス本も経済本も文芸書もじゃんじゃん読むのだが、やっぱり経済学や経済は私には関係ないし興味もないという人は、少なくとも私の周りには多い。
そういう人にとってこの本は、前者のビジネス本の話は別にして、少なくとも経済学が何について考えているのか、そして当たり前やけど中々わかりにくい、経済とか金儲けは大事やなぁという感覚やとか、経済学もなかなか真面目で真摯な学問やなぁという事が良く判ると思うし、基本的な経済の動きとか、概念とかを理解させてくれると思う。
例えば、経済が発展するとはどういう事か。インフレと失業率、財政赤字と貿易赤字の関係、またそれらが上がったり増えたりする事の何が悪いのか。などなど。
しかし、この本の良いところは、経済がどういうものかというのを理論として理解しようとするの方向にあるのではなく、国全体や国民のいる社会が経済的にがどういう動き方をするのかが実感として理解できるとこにあるように思った。
もちろんそれが「判ったつもり」のレベルに留まっている段階の理解なのかもしれないけど、それはそれで直接的な投機的利益に生かしたり結びつけたりは出来なさそうだという部分で学問的な理解でもあるともいえる。
そしてなによりもこういう人達が見えないところでつむぎ車を回して、国と自国の経済を守るために色々がんばっているのだなぁと変に感心したのが一番大きいのかもしれない。
参考:
YAMAGATA Hiroo Official Japanese Page
Wikipedia : ポール・クルーグマン