エリザベス キューブラー・ロス『死ぬ瞬間 -死にゆく人々との対話-』
エリザベス キューブラー・ロス『死ぬ瞬間 -死にゆく人々との対話-』を読んだ。
この本は、精神科医あるいは心理学者である著者が四人の神学生たちの「人生における危機」についての論文執筆のための要請に応じて、死に瀕している末期患者へインタービューを行い、彼らの反応と要求を研究する。といったゼミからスタートして、延べ200人の末期患者へのインタビュー行い、そのインタビューのいくつかの実例を具体的に取り上げて、そこから「死」にいたる人間の心の動きに迫ろうというものである。
インタビューするといっても、患者を患者として扱うのではなく、一人の人間として、患者がもうすぐ死ぬ事を前提として、一個の人間として何を感じ、何を思うのかを、患者を先に死に赴く教師として、とても個人的なレベルで話してもらうことで、個人にとって死とはどう受け止められるのか。という事を浮き彫りにしようとする方向性を持っている。
著者はこの本を、ただ死に臨んだ精神状態を分析するだけでなく、死に臨んだ人を、無駄に苦しめて延命させるのではなく、本人の望みと合致した形で如何に幸せに死なせてあげられるか。といった問題意識と目的意思識を持って書いている。
その目的と問題意識のゆえ、この本は末期患者だけではなく、その患者の家族や末期患者に対する精神療法の必要性にまで言及する、なかなかに盛り沢山な内容になっている。
そして、この本は1969年に出版されるや大きな反響を呼び、現在では、この本は「終末医療」や「ホスピス」なる概念を生み出したもとであり、そういった考え方のバイブルとも言われるほどの位置にあるようだ。
そのスジでは有名な本ではあるが、恥ずかしながら読んでいなかった。
私が図書館で借りて読んだこの装丁の本は1971年のもので、現在は新しく訳し直された新版が出ているらしい。私は借りてからその事を知った。
この1971年の旧版は訳が古くて訳出にもちょっとした問題があるらしい(と訳者が言っている)ので、私はこの本でも何の違和感も感じなかったけど、読んでみようと思った人は、新しい訳の物を読む方が良いかもしれない。
著者によれば、死に望んだ人は五つの段階を通って死に赴くらしい。
具体的に言うと、”私が死ぬはずが無い”や”診断は間違いに違いない”と思う「否認と隔離」の第一段階、そして次に”何故他の人間で無く私が死なねばならないのだ?”といった「怒り」の第二段階、そして”あと~ヶ月長く生きさせてもらえれば~する”と医者や神に要請する「取り引き」の第三段階を経て、あらゆる物に絶望してあらゆる力を使い果たしたような第四段階の「抑鬱」の状態に入り、最後に自身の死を受け入れる「受容」の五段階をたどると言う事らしい。
ただ、各段階は明確に別れるわけではなく、ある程度重なり合い、また一つ二つ前の段階の精神状態が時々出てきたりもするし、最後の段階に向かわずに死を向かえる人もいる。更には常に希望は全くなくならないところもミソであるらしい。
学術的なレベルでこの本を捉えると、著者の主張するこの「死の五段階説」がこの本の中で重要な部分になってくるのだろう。
しかし、単に純粋な興味で持ってこの本を読めば、そういった学術的な「死の五段階説」など関係なく、各段階で苦しんだり喜んだりする末期患者のリアルな叫びが伝わってくる。
我々は自分自身が確実に死ぬ事を知っているけど、実際に自分自身の死はリアルなものではないし、ある意味で自分自身を不死なものとして捉えているところがあるだろう。
大抵の場合、死は我々にとって自分の問題ではなく他人の問題として捉えられる。
しかし、この本の中では、死をリアルな自分の問題として捉えて苦しみ抜き、結局死んで行った人達の望みと言葉が載っている。そのリアルさと言うか悲痛さと言うか真剣さは、巷にはいて捨てるほど溢れている「死は生の同一線上にある」的な言い草が如何に薄っぺらい言葉であるかを思い知らせてくれる。
死ぬ事を受容し、この世に興味を失う状態は、本人にとってこの世に思い残す事が無い証拠であり、残された家族にとって喜ぶべき事である。という見方が心を打った。
そして、結局こういった「幸せな受容」に至る人の誰もが、宗教的であるか、限りなく宗教的であるものを通っている事に、なんとも心を動かされた。