『ビンゲンのヒルデガルト―中世女性神秘家の生涯と思想』

amazon ASIN-476426630X先日、中世音楽アンサンブルのセクエンツィアが唄う「エクスタシーの歌~ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの世界」なるCDを買ってから、その作曲作詞者であるヒルデガルト・フォン・ビンゲンなる人物に興味を持ったので、この人物に関する『ビンゲンのヒルデガルト―中世女性神秘家の生涯と思想』なる解説書(或いは研究書)を読んだ。
私が始めてビンゲンのヒルデガルドを知ったのはCD屋さんであるがゆえに、私は彼女を音楽家として捉えていた。しかし、一般的に彼女は生きていた当時から今まで、預言者に近い「幻視者」としてみなされているようである。
何千年にも及ぶカトリックの歴史の中で、先駆者も後継者もいないと言われる、全く特異な突然変異のごとき存在であるヒルデガルドがどういった生活を送り、何をなし、何を言っていたのかについて解説された本である。
著者のH.シッペルゲスなる人は、哲学の博士号も持っているけど、本業は神経科と精神医学の専門医である。
本の内容の大筋はカトリック的な教義と照らし合わせた上での話しになるけど、神学者でしかなかったり、哲学者でしかない人が、こういった事について述べるのではなく、医者の立場として「癒し」について述べる視点が面白かった。


彼女が幻視としてヴィジョンを見てそれを預言だとするのは、その現象をだけとって見れば神秘主義的というかグノーシス的な印象を受ける。
しかし、そのヴィジョンの内容自体は異端とされるどころか当時から今に至るまで伝統的で正当な教義に則っているとされているのがびっくりである。
大抵こういった人は、現実から乖離しすぎて異端扱いされてえらい目にあうのが常であるが、若くして修道院に入った彼女は修道院長として現実的に手腕を発揮する実務タイプの人であった。
彼女は色々な人と、教皇や皇帝とまで手紙のやり取りをして尊敬を集めていたようであるけど、それは彼女の幻視者=預言者としてのおかげも多々あるように思う。
当時、女性は学問的な領域から完全に閉め出されており、思想家として神学的な方向性の議論や意見を述べることが出来たのは男性しか出来無かったはずである。
しかし彼女の神学的な見解や意見が重要視されて神学的な議論や検討の壇上に上がっていたのは、彼女が思想家ではなく幻視者であったからだと言うのは面白い。
そして幻視者であるがゆえに思想家や著述家ではたどり着けない、現実的な影響力を発揮できる高みに立っていた事実は、よりいっそう彼女の実務の手腕を高めていたのだろう。
彼女の言葉はとても激しく、神聖ローマ皇帝のバルバロッサに、彼の教会分裂に関する政策に関して、彼を非難して罵倒するような手紙を送りつけ、彼が態度を変えないのを確認すると「もしも生き長らえるおつもりならば。さもなくば私の剣が刺し貫くでしょう!」という内容の手紙を送りつける。
結果的にバルバロッサは破門された教皇アレクサンデル1世と和解して、彼女の意見したとおりの行動をとったことになるけど、今ではこれと同じ内容の文章をネット上に書いただけでも殺人予告として逮捕されるくらいの過激さである。
彼女は年老いてから説教旅行の旅に出るほどに、現実的な発言力と力と名声を持っており、現実的な助言や行動をとても精力的に行った人であった。
そんな彼女が同時に幻視者であり預言者でもあったと言うのはとても不思議である。全く正反対の両極にあまりにも突出した個性は、確かに「先駆者も後継者もいない」といわれるほどの強烈な個性である。
しかし、彼女が「先駆者も後継者もいない」とされるのは、彼女の唯の個性ではなく彼女の語る「幻視」としての神学的な思想によるものである。
彼女は「幻視」やヴィジョンとして神と世界の真理を、宗教的な根底に関する教義を、手紙やその著作の中で述べるわけであるけど、彼女の思想の一番の大きな特徴は、物質的な属性の重視と、それに伴った性的なイメージの重用である。
物質は忌むべきものではなく、精神による創造の対象たる素晴らしいものであるとみなされている。
物質や性的なヴィジョンを重視する宗教は原始宗教には沢山あるけど、一般的には物質と肉体よりも精神を重視する方向性を持っていると思われるキリスト教思想として、キリストの受肉、三位一体、アダムとイブから最後の日の救済、神の計画などありとあらゆるカトリック的語彙が、物質的でリアルな世界で展開されるのはかなりびっくりした。
物質を創造の対象として捉え、精神が自らの肉体を創造することで救いがもたらされるとする考え方はあまりも具体的で明確である。
こういった方向性を持ち始めて異端に流れてしまった人は数多いし、そういった胡散臭い「スピリチュアル」と一口で言ってしまえるようなものは多分とても簡単で安易な方向性なのだろう。
しかし彼女がそういった己の真理を私が発見したものとして予め言うのではなく、言葉を預かる預言者としてカトリックの教義と伝統を強化しようという意図で述べているのが、この本の著者の言うようにとても感動的な部分である。
これだけのことを言いながらも異端審問に問われることもなく危なげなしに宗教者の道を歩む様は見ていて惚れ惚れする。彼女からすれば、マイスター・エックハルトなんかとても危なっかしいくらいである。
彼女の捉える「自然」観は神の創造と救済の計画の成就する意味自体の存する場であり、彼女が12世紀当時に既に予言していた環境破壊に関する批判もこの方向性で神に対する冒涜としての文脈で行われる。
彼女の言う自然の価値と、それを根拠にした自然を守る意義の重要性からすれば、今時のエコロジーはいかに闇雲で無批判で無目的で無自覚に見えるだろうか。
彼女の「賢くあると言うことは、すべての生の訴えにさいして理性的であるということだ」という言葉は、欲望も理性も悪く言わず、欲望を抑圧するでなく欲望のままに生きるでもなく、理性だけでもなく理性なしでもない、誰でもが最も良いだろうと考える生活と生き方のスタンスについての、多分今まで聞いた中でもっとも絶妙な表現であるように思う。
とは言え「賢く」あろうとすることはやがて「可能な限り賢くあろうとする事」になってやっぱりいずれ極端に走るものでもある。
しかし彼女は「この宇宙全体の核心は愛であって、愛を正しく把握しようとするものは、高みにも広さの彼方にも行ってはならない。愛は常にその中心にあるのではないか。」と言うように、そこでも自分のいるべき場所をちゃんと指し示してくれているのである。
環境問題から経済問題、そして「神は死んだ」まで、現代に山積みになっている問題はとても多いけど、彼女の語る特異であるけどとても健康的に感じる思想はそれらの問題にちょっとした面白い視点で光を投げかけるように思える。
どちらかと言えばマイナーな人であるけど、幻視者としての創造と癒しの思想家として、ビンゲンのヒルデガルドがブレイクする日が来るかもしれない。
読んでて、なんか、ニーチェって本当はこういうことが言いたかったんじゃないかという気がした。

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