勝山実:『ひきこもりカレンダー』/ ひきこもりシャウト / ひきこもりアフォリズム / ひきこもりニルヴァーナへ
最近ひきこもり関連書籍ばかり読んでいるが、続いて読んだひきこもり本は2001年の始めに出版された勝山実:『ひきこもりカレンダー』である。
この本の3年前に出版された『社会的ひきこもり―終わらない思春期』の斎藤環がひきこもりを治療者から見た立場で、この本のおよそ一年後に出た『「ひきこもり」だった僕から』の上山和樹が元ひきこもりの立場から書かれた本だとしたら、この勝山実の『ひきこもりカレンダー』は現役ひきこもりが書いた本だという位置づけになろうかと思う。
ひきこもり経験者である上山和樹の『「ひきこもり」だった僕から』が、ひきこもりで(あった)自分の心の中を分析的に客観的であるよう心がけて表現しれいるのが伝わってくるのに引き換え、この『ひきこもりカレンダー』は自らの心の中を可笑しさを交えて自らの中にある不満とルサンチマンを力の限りに叫んでいるような印象を受ける。
基本的に何かしらのまとまった書籍であるというよりは、ブログを本にしたような感じといっていいだろうか。彼は自らのひきこもりを「親のせい」だと断言し、心の叫びをこれでもかと本にぶつけている。
いわゆる「まともな社会人」の感覚を持った人がこれを読むと、子供が好き勝手言ってるように聞こえ、怒鳴りつけたくなるような嫌悪感を抱くらしい。
「専業子供」「不登校は本人不在の大騒ぎ」「親とは血がつながっているんだから、お金もつながっていると思えばいいんです」などと、本のそこかしこに散りばめられた箴言のような言葉が「オトナ」達の神経を逆撫でして、「オトナ」達の古傷を貫き、「オトナ」たちが必死に否定しようとするものを堂々と肯定し、必死に肯定しようとしている物を笑い飛ばす。
しかし、逆に「オトナ」をここまで苛立たせて怒らせることができるというのは、彼らの怒りのポイントをつく何物かがあるのだろう。
この本のあとがきで斎藤環が彼のことを評して「トリックスター」といっているのだが、まさにぴったりと言う感じである。
彼のアフォリズム溢れる言語感覚が面白いのは彼が「ひきこもり」だからというよりは、彼自身のキャラクターによるだろう、現在の彼のブログはこの本を読むよりもあらゆる意味で洗練されて面白い。
この本が出版されてすでに8年が過ぎたが、著者はいまだにひきこもりである。
彼はひきこもりを脱する気持ちは無く、ずっとひきこもりを続けるつもりであるようだ。
考えてみれば上山和樹がひきこもりでなくなったのに引き換え、彼がまだひきこもりであるというのは意義が大きいと思う。
世間一般だけでなくひきこもり当事者のほとんども「ひきこもり」が救いを得るには「ひきこもり」を脱して「ひきこもり」でなくなる事だと思っているが、彼は「ひきこもり」のままでの救済を追求しているように見えてしょうがない。
望む望まざるにかかわらず、もはや彼は本当の意味で「ひきこもり」の可能性を試す存在であるだろう。
彼は自分自身で半ば冗談のように「ひきこもり名人」「ひきこもりブッダ」と名乗っているし、さらに、
「ボクはひきこもることで世の中が変わると信じる。
ひきこもりの人は自分は何もしていないなんて、間違っても思わないでください。ボクらが一番ハードにこの世の中と戦っている人間なのだから。」
とも言っている。彼は冗談や皮肉や自棄になってそう言っているのではなく、まじめにそう言っているのである。
彼が目指す「ひきこもりニルヴァーナ」とも言うべき場所に到達する人が現れれば、つまり「ひきこもり」を脱することなくそのままで「救われた」人が出てくるということは、「ひきこもり」のネガティブイメージは一掃されて、「ひきこもり」がひとつのカルチャーとなるであろう。
そうなれば今の価値は確実に揺るぎ、世界は確実に変わるに違いない。