斎藤環 『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』 / ひきこもりから「人間」を考える
またしても斎藤環の「ひきこもり本」の『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』を読んだ。
『社会的ひきこもり―終わらない思春期 』や「ひきこもり」救出マニュアル などの斎藤環のひきこもり本がほとんど2000年前後の古い時代に書かれているのに対して、この本の出版は2007年10月となかなかに新しい。
著者が言うにはこの本は今まで著者自身が書いてきた「ひきこもり本」は実践的なものでかつ古いものばかりだったが、この本は現在の段階での「ひきこもり」についての理論的な部分をテーマに書いたということである。
確かに『社会的ひきこもり―終わらない思春期 に比べて、ひきこもりは何が起こっているのかをはっきりさせて、ひきこもり当事者、ひきこもりの家族、ひきこもり当事者に治療者や第三者として関わる第三者、のそれぞれの立場でひきこもり問題をどう捉えるべきかが明確に示されていたように思う。
『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』なるタイトルは、なかなかに挑発的で絶妙なタイトルだと思う。
なぜなら、ひきこもりが「治る」とはどういう状態を指し、それがどのようなメカニズムで行われ、そしてそれが可能なのか?というところが含意されているからである。
それらの疑問を設定した上でそれに本の中で答えてゆきながら、世間的なステレオタイプでの「ひきこもりが治った」状態として想像される「ちゃんと就職して友達たくさん作って結婚して」的な、いわば社会的なビジョンを否定して解体し、引きこもりの治癒として社会的な側面でなく、あくまで心理的精神的な側面を重視しているところがポイントである。
彼は「ひきこもりが治る」ということはいろいろな価値や信条から「自由」になるということだという新しいヴィジョンとして定義している。具体的に言うと、自分の責任で自分の意思で自分の人生を選択してゆく決意をする自由でもって最初の一歩を踏み出した時点で、「ひきこもりが治る」とされることになるらしい。
ひきこもりから脱することを単なる社会参加や社会的ポジションの獲得といった社会的側面でなく、個人的な心理的精神的自由の側面として捉える捕らえ方は、ある意味で一般的な意味での「ひきこもりが治る」とされる状態を下方修正することなのかもしれない。
しかしこれはひきこもりの関係者ではなく、ひきこもり当事者にとって心理的にも精神的にも将来的にも一番よいとされる、一番辛いはずであるひきこもり当事者に寄り添った上でのヴィジョンであるところに意義があると思う。
ひきこもりを本人が怠けているせいだと断定したり、家族が甘やかすせいだと断定するような犯人探しの不毛さが事態を悪化させるだけだというのは確かに彼の言う「ひきこもりシステム」なるものからよく理解できるように思える。
つまり、ひきこもり当事者は「ひきこもりシステム」の一番負荷の高い歯車でしかないのだから、その歯車だけが変われば「ひきこもり」が解決するのではなく、「ひきこもりシステム」から抜け出すには関係者が全員「ひきこもりシステム」を放棄するために、人間関係のシステムを改善してゆく必要がある、といったところである。
しかし、ネット上ではその「ひきこもりシステム」なるものを疑問視している人も少なからずいるようなので、この「ひきこもりシステム」なるものは彼の持論であると思っておいたほうがいいのかもしれない。
しかし、私自身は現時点でひきこもり理解と対ひきこもり方策を切実に必要としているわけではなく、ただ本として読んでいるだけなので、話が本当に厳密であることよりも面白さを求めているわけであるから、そういう意味でとても面白い本であった。
しかしそれでも、これではあまりにも知識が偏りすぎるから、斎藤環以外のひきこもり本ももっと読んだほうがええなぁと思わないこともない。
いろいろなひきこもり本を読んで「ひきこもり問題」というのは本人だけでなく家族や社会や第三者の間での人間関係の問題でもあるというところがよくわかった。
そしてひきこもり問題について考えるということは、結局人間関係そのものについて考えることなのだなという感触があった。
ひきこもり関連書籍をまとめて読むことが、私にとって人間関係とか人生とか人間そのものについて結構考えるきっかけになったのは不思議といえば不思議なのであった。