酒井保 『自閉症の子どもたち 心は本当に閉ざされているのか』 / 治療者と教育者 / 自閉症症から「人」を見る
先日このブログに書いた笠原嘉『精神病』の感想にキノコ先生がコメントを下さって、笠原嘉『精神病』がおもしろいならこの本も読んでみるがよい。とおっしゃるので「喜んで!」と読んでみた。
2001年出版とちょっと古めの本であるけど、長年自閉症の子どもたちと治療者としての立場でかかわって来た著者による、サブタイトルである「心は本当に閉ざされているのか」という問いに「自閉症」とは心を閉ざして人との関わりを拒否してしまったのではなく、心を開いて触れ合いたいけど他人が怖いから可防衛になっている状態と捉えたうえで、自閉症とは何が起こっているのか、どう接すればいいのか、という事について書いてある本であった。
本来は自閉症児の親やら兄弟やら学校の人やら、自閉症児となんらかの関係者である人たちをメインターゲットにしているようであるが、自閉症とは何の接点もない私が読んでも、一気に全部読ませるだけのものを持つ全編が温かいトーンで貫かれた本であった。
「統合失調症」が予後の良いほぼ完治する病気だというのとは対照的に、この自閉症はかなりの程度の影響をその人生に及ぼしてしまうとするところが以外であった。
昔に『自閉症だったわたしへ 』という本を読んだことがあり、この本が売れに売れたので著者はその続編である『自閉症だったわたしへ2 』を書いたのを知って、「心開きまくりやんけーお前絶対自閉症ちゃうやろ!」と図書館で突っ込んだことがあった。この人が自閉症でないとは言わないけど、ちゃんと結婚して本まで書いてしまうような事例は本当に特殊なのがわかった。
そして自閉症児は、精神と肉体が分離したような、大抵は肉体が切り離された精神だけの状態で肉体感覚が極端に少ない状態であることが多いというのがとても印象に残った。
今まで怪我をしても痛がらず、風邪も引かなかった自閉症児の症状が軽くなってくると、とたんに風邪を引き始めるというのは、著者同様に人間の身体と心の不思議さを感じずにはいられない。
彼が自閉症児の立場と視点に立って彼らの苦しみや悲しみを理解しようとする様は、心を打つし色々な意味で身につまされる思いであった。なんというか人との関わりについてとても考えさせられた。
彼は「元来「普通」と呼ばれることとはまったく違った生き方しかできなかった自閉症の子どもたちが、とにかく皆と何とか共存できる程度になること、いわゆる「普通」といわれる生き方を身につけるということにすぎません。
現在の自閉症治療においては、医学的治療が主体ではありません。子どもを育て教育すること、つまり療育が基本となっています。」
そして「自閉症が治るかどうかを問うことよりも、子どもたちの育ちを見守ってゆくことがむしろ重要なことではないのかと思うに至りました。」と言っており、彼の言うように教育者であることがいちばんの治療者であるということはなんとも含蓄がある。やっぱり臨床的な立場にいる人の重みは違うなと思う。
自閉症児は人との関わりに傷つき外界を恐れ、やがて誰も手を差し伸べなければ自分と世界を否定してしまう存在であった。
自分を守るために人との関わりを避けるそんな自閉症児に対して、著者のように人と関わって生きることは楽しくて快いものだと伝えて教育してゆく事こそが治療だとする姿勢は、なんというかグッと来るものがある。
治療者であるためには教育者であらねばならず、教育者として人との関わりと世界が肯定的であることを教えるためには、本当に自分が人との関わりと世界を素晴らしいものだと肯定していなければいけない。世界を否定するものに世界の美しさは語れないというわけである。
そして、結局は、そんな子どもたちをより救うためには、自らが高まってゆくことが一番であるという結論に至らざるを得ないのかもしれない。
ニーチェさんの言うように
「医者よ、あなた自身を助けなさい。そうすれば、あなたはあなたの病人たちをも助けることになる。自分自身を癒す者を、目のあたりに見ることが、病人のなによりの助けとなるようにすればいい。」
ということであろうか。
この本を薦めてくださった大学教員で研究者という立場の某キノコ先生からすれば、本当に自分の問題として哲学を学ぼうとする学生に対して哲学を教える立場の教員として接する事は、ある意味ではこの著者と自閉症の子どもとの関わりに近いものがあるのかもしれない。そこでは教育者という立場はある意味では治療者にもなりうるのかもしれないなぁ。と思った。
語り口は柔らかくてふわふわと読み進んでゆくけど、読んでいると人間の精神と肉体についてだけでなく、教育や治療、そして生きることそのものといったことについてもなかなかに考えさせられたのであった。