泉鏡花:『夜叉ヶ池・天守物語』 /人間は妖怪か / 早く妖怪になりた~い
泉鏡花の二つの戯曲『夜叉ヶ池』と『天守物語』の入った二つの岩波文庫『夜叉ヶ池・天守物語』を読んだ。
読んだのは少し前の夏真っ盛りの暑い日であったけど、今更のように感想などを書く。
何故か私は余り日本文学は読まないけど、この本を読んでこの本の中の世界に浸っていると、日本語の美しさはもちろん、物語り全体が醸し出す幽玄ともいうような美しい感覚が染み渡ってくる。
これは一回読んで終わりのストーリー物じゃなくって、何度も読んでその味わいを噛み締めるタイプの本である。たぶん私はこれからこの本を何度も何度も読み続けることになるに違いない。
『夜叉ヶ池』と『天守物語』は基本的にどちらも恋物語であるが、どちらの物語にも妖怪が主人公級の役割で出てくる。
愚かで弱くて醜くて取るに足らない存在である人間とは対照的に、妖怪は圧倒的な力と知恵と美をもった存在として描かれており、妖怪のすることなすこと全てが知恵と美とユーモアに満ちている。
そして、そのとてつもない力と妖力を持つ妖怪が元々は人間であった所が面白い。
妖怪は元々妖怪として生まれるのではなく、とてつもない情念やら恨みを持って死んだ人間が妖怪として生まれ変わる設定で、いわば妖怪は超人のような存在として扱われているのだ。
その人が死ぬに至った、或いは持ちつつ死んだ情念や恨みは死んだ時点ではなんら解消されていないにもかかわらず、妖怪となった時点でその事に全く拘っていないところが印象的である。
妖怪同士、人間同士、あるいは妖怪と人間との恋物語がこの二編のテーマであるけど、ひたすら醜くて愚かな人間に引き換え、恋をする人は人間も妖怪もどちらも美しくあり、
そして、軽く人間の力を凌駕する妖怪も、恋愛を前にするとその人間であった時と同じ無力な存在でしかないところがポイントであろうか。
恋をするととても無力になるけどその代わりそのパワーは計り知れない。愛の美しさと強さと弱さは人間も妖怪もどちらも救うという恋愛至上主義的価値によって両編とも貫かれているわけである。
『夜叉ヶ池』と『天守物語』の二編が入っているけど、印象深いのはやはり『夜叉ヶ池』であろうか。
自分がそこいることがささやかな村の平和を守る前提になっている事を、日に三回の鐘の音が思い出させるので普段は思いとどまっているけど、本当は村人が約束を忘れて鐘を鳴らさなければ、自分が守っているはずの村を崩壊させて愛する人の下に飛んで行けるのに。と願っている夜叉ヶ池の守り神でもある妖怪白雪姫の気持ちなどは中々に微妙な味わいがある。
破壊や死と一体化したエロティシズムと言えばクリムトの『Judith I 』をイメージするけど、『天守物語』で人間に殺されるより愛する富姫に殺されることを願う図書乃助は人間である分スケールは小さいが、『夜叉ヶ池』の妖怪白雪姫は好きな人の下に行くために「村ごと破壊」とちょっとスケールがでかい。
その破壊の方法も「大水で村を押し流す」となんというか感情があふれ出す表現としてはとてもイメージしやすく、白雪姫の溢れんばかりの感情が、なみなみと水を湛えた夜叉ヶ池のイメージと重ねあわされて見事に表現されているように思う。
妖怪的人間の溢れ出す激情の前では、我々一般人は濁流に押し流されるコオロギのように無力である。
それになにより、この全てを押し流すほどに満ち満ちた感情を、それこそ指で突いたり一つの言葉で堰を切って溢れ出そうになる一触触発の微妙なバランスで保ちつつ生活する。というエロティシズムは中々のものですな。
そしてこのエロティシズムが純和風の味付けにとても良く似合う。
恋愛至上主義の文化圏と言えばフランスなイメージやけど、日本のエロティシズムも中々のものですぞ。
まぁなんというか、我々の誰しもがそういった妖怪的なところを持っているわけで、この妖怪を色々な意味でちょっとぶっ飛んだ人間であると考えればとたんに中々に含蓄深い味わいが出てくるのであった。
昔、妖怪人間が「早く人間になりた~い」といっていたが、
むしろ私のほうこそあらゆる情念や感情や欲望をを突き抜けて「早く妖怪になりた~い」である。