教養としての世界史/自己変革としての第四次性徴
前に古本屋さんで買ったまま忘れ去られていた『教養としての世界史』をやっとこさ読んだ。
昔は「人間のすることに興味が持てない」などと殆ど「中二病」のようなことを言って歴史に興味なんか殆ど興味がなかったけど、オッサン化するに伴って歴史に対する見方が変わってきて、『チボー家の人々』を読了したくらいから急に歴史に興味が出てきた。
この「オッサン化」を私はひそかに「第四次性徴」と心の中で呼んでいる。
この本は世の中に大量に出回っている歴史概観な新書本の一冊であるけど、「教養として」とさっぱり割り切って、著者の独断で要らない部分はばっさり省略して、「歴史の流れ」とか「民族の相互のつながり」を重視して書かれた、というところに好感を持って買ったような気がする。
歴史に興味を持ち始めてから時々高校の世界史の教科書を読んでいたものの、いつも中国あたりで眠たくなって困っていたのだが、この本の言うように中国の歴史を「漢民族と西北異民族との抗争史」としてとらえた上で読むとすっと読めたように思う。
とはいえ、この本は1966年に出版されたということで、東西冷戦真っ盛りの時代から過去を眺めた世界史ということになり、45年前に書かれた本であるので、今風の歴史認識からすればちょっと古いということらしいが、どう古いのかはちょっと良く分からなかった。
著者の西村貞二は2004年に91歳で亡くなった西洋史のルネサンス期を専門とする歴史学者であるらしく。
私自身も好きなルネッサンス期と宗教改革あたりの話はとても面白かった。
宗教改革の話と関連してカルヴァンが余りにも厳格でストイックすぎるあまり、異端審問で容赦なくいろいろな人を処刑してシステム維持に力を注いでいたあたりの話は「ほへー」という感じであった。
「歴史は学ぶのではなく体感するのだ」的なことを聞いたことがあるような気がするのだが、この本を読んでなんとなく一繋がりの歴史を体感できたような気がする。
そして、世界や時代の大きく変革する渦中で、その変化に乗ってちゃんと自身を革新できた国家や民族が歴史の中で生き残り、
古い体制や古い考え方に執着する余りに変革を拒否したり、旧体制を維持することだけに力を注いだものは、どれだけ優秀でどれだけ強くどれだけ高い文化を持っていようが、滅びたり取り残されたり占領されたりして歴史の波に飲まれてしまったのがなんとも良く分かった。
例えば、日本が明治維新と戦後で大きく根本的な自己変革を達成したことで、激動した転換期の世界の強国に飲み込まれること無く、自身を世界の中の強国の一員として生き残ることができたのだということはよく言われる。
今、世界のパワーバランスが大きく変わる中、現在の日本を内から外から襲う危機に対して、日本が世界の強国として生き残ることが出来るか、三流国として転落してゆくかどうかは、明治維新や戦後のように体制やらシステムやらを根本的なところから自己変革出来るかどうかに掛かっているのではないだろうか?
などという私には余り関わりの無いベタ問題はわりとどうでもよくって、
それよりも、私自身が私自身を取り巻く小さな世界と時代が変わろうとする中で、滅びるか生き残るかの決断を迫られてるような気がするのであった。
今までひたすらSparcやSolarisやSun MicrosystemsやWillcomなどといった旧時代の産物を愛用し続けてきた私自身であるが、私はそういった旧時代のテクノロジー偏重主義から変革できるのか、というよりももうすこしすれば確実に過去の概念となるであろう「コンピューター」そのものを、根本的に過去のものとして保留るような変革を迫られているような気がした。
今まで何も考えずにひたすら自分そのものの一環としてコンピューターに自分の興味の赴くままに突き進んでいたわけだが、ふとこの本を読んで「お前からコンピューターを取るといったい何が残るというのだ?」というところを不意に突きつけられた気がする。
そしてそれを切欠にどんどん根本的なところで自己自身への問いが生まれ、そして分裂し、走性粘菌のように一方向に向かって動き始めたことが、私にとっての「第四次性徴」の始まりなのだろうという気がする。
とはいえ、歴史の波に乗ってどんどん自己変革を遂げながら姿を変えてゆくことが果たして良いことなのか?
歴史の波に飲まれて滅びて過去のものとなってしまうことが果たして悪いことなのか?
ってあたりの根本的な問いもありますわな。
生き残らなければできないこともあれば、滅びなければできないこともまたあるのではないか?という気がするのであった。