勝山実『安心ひきこもりライフ』/人間である事に対する「然り」/ひきこもり新世紀

amazon ASIN-4778312589御大の十年ぶりの著書、勝山実『安心ひきこもりライフ』を読んだ。
この本は全国不登校新聞社発行『Fonte』紙上での氏の連載と、現在も絶賛更新中のブログ「鳴かず飛ばず働かず」からの書籍化ということになろうか。
内容は「ひきこもり」を全肯定した前提の上で、いかに「ひきこもり」としてサバイバルするかをひきこもり初心者にレクチャーする体裁をとっている。
全国160万とも言われるひきこもり同志に対して、自らを責め苛むことなく、臆することなく「ひきこもり」を肯定する道を説きつつ、さらに「ひきこもり」として実践的に生きてゆく方法が自らの経験を持って語られる。
「ひきこもり」からいかに抜け出すかではなく「ひきこもり」をそのままで肯定してしまうこの方向性の言葉に触れることは、今までの人生にひきこもりとは縁もゆかりも無かった、「ひきこもり」を無条件で否定されるべきものと捉えている諸氏にとっては度肝を抜かれる経験となるだろう。
そして、ひきこもり名人の軽妙なとぼけた語り口は、ひきこもりのそばに立つ者にとって楽しく本を読み進むための絶妙な潤滑油となり、ひきこもりを否定者の怒りの火に注がれる油となるに違いない。


殆どの人間が何かしら対外的な指標となる社会的な属性や特性、或いは人と自分を隔てる特性でもって自らを捉え、また自らを語る。
例えば、どこそこの学生で何を勉強している、どこどこの社員で何をして働いている。
或いは誰々の妻であったり夫であったり、親であったり子であったり。
何々が趣味であったり、何々が得意であったり。
殆どの場合、自らを捉え自らを語ることは、社会や家庭や地域の関係性やつながりの中での自分のポジションや人との違いを捉え語ることでもある。
殆どの人はそういった最低限の社会的な属性、或いは人より秀でた点をベースにして「自分」というものを把握し、また人を把握しようとしているのではないだろうか。
しかし、一方で「ひきこもり」はそういった社会的な属性が失われている状態である。
「ひきこもり」の状態になること、つまり自らを語る属性を失った状態であること、ただ人であるだけの状態に殆どの人は耐えられないし、「ひきこもり」の辛さもそこに端を発している。
それは「ひきこもり」当事者や経験者にしか分からないまさに「地獄」である。
氏は20年にわたる苦難に満ちたひきこもり道の末に、ひきこもりであることを肯定し、そしてひきこもりである自らを肯定するに至ったわけであるが、これは社会の中の自分でもない、本当の素のままの自分に対する肯定であるといえる。
いわゆる「まとも」といわれるような社会生活を営んでいる人の中でこのような自己承認と自己肯定の境地にいる人がどれだけいるだろうか?
自らの社会的地位でもなく、自らの家庭内、地域内、人間関係内でもない、自らが他人から秀でている点でもない、どこにも属さない素のままのただの自分を他人と比べることなく承認して肯定することは本当に難しい。
もちろん勝山実氏には自他共に認める「ひきこもり名人」たる社会的地位や、人より秀でた文才があるわけであるから、その部分で自らを肯定することも出来るだろう。
しかし、それは彼にとって自己肯定の根拠となるものではなく、自己肯定の後にやってきたものであるように思われる。
彼が「ひきこもり」を、正確にはひきこもりである自らを肯定する様は、とても根本的で根源的なレベルでの人間肯定であるように思える。
「ひきこもり」は社会から否定され、家族から否定され、そして最も激しく自らに否定される者であった。
氏は「ひきこもり」について語っているが、それは「ひきこもり」と同じように、社会から、家族か、そして自らに否定されるあらゆる人と状況に対する肯定の言葉でもある。
彼の「然り」の言葉は全国160万のひきこもりだけでなく、自らを否定するすべての人に対する「然り」でもある。
それは、ただ人間であること、ただ生きることそのものを肯定する「然り」であり、読むものの心を深く静かに打つのだ。
昔、ひきこもりといえば若者のものであった。そして「ひきこもり」はとにかく無条件的に否定的なものとして、可能なら抜け出すべき状態として語られたし、ひきこもり本は如何にひきこもってしまった若者が「ひきこもり」から脱するかというところがメインテーマであった。
しかし彼はこの本の中で、ひきこもりから抜け出すことなど考えもせず、如何にひきこもりとして生きてゆくかという部分を語っている。すでに「ひきこもり」は肯定されたものであり条件として前提されているのだ。
そして、氏はこの本の中で「ひきこもり中年」という言葉を多用している。もはやひきこもりは若者のものではなく中年のものなのである。
「ひきこもり」なる概念そのものが成熟しつつあるのを感じずにはいられない。

働かないのに死なないひきこもりは、格差社会を支配している「働かないと死ぬしかない」という恐怖をやわらげるでしょう。アイツら生きてるじゃないか、この現実が社会の最底辺を持ち上げます。

こういった10年前までは思いもよらなかった視点からの言葉を聞くに及び、「ひきこもり」の世界も新世紀に入ったような感覚を覚えた。
もう今の日本が経済的にも社会的にも発展が望めず完全に閉塞してしまい下降線にしかないのは誰もが否定できない一般的な見方であるだろう。
そんな中で

立派な目標や大きな夢を諦めると、現実的な情けない選択肢がいくつも登場し、多様な生き方が可能になります。生活は低ければ低いほど楽しい。

といった彼の言葉はとても潔く美しく、そして重く響く。
この言葉は「多様」、或いは「楽しい」といった概念や価値の根本的な再定義である。
さらにそれは、もはや先の望めなくなった発展史観的な高度資本主義経済の持つ価値を根本から揺さぶるものでもあるのだ。
昔から「ひきこもり」は現代社会の日本に対するアンチテーゼであるという文脈で語られることが多かった。
しかし、ひきこもり新世紀になった今、そのひきこもりのアンチテーゼであった日本の現代社会が行き詰ってしまった今となっては、社会は「ひきこもり」から一つのテーゼを学べるように思ったのであった。
って名人?ちょっと褒めすぎでしょうか?

2件のコメント

  • 読んだ。
    うっとりした。

  • おっと、これは名人。
    「うっとり」ですかww

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