川島小鳥『未来ちゃん』/「過去ばあさん」でも「現在さん」でもない「未来ちゃんの写真」あるいは「写真の中の未来ちゃん」
イジスの写真展の話を書いたのでそのついで、ということも無いけど、最近みつけたとても気に入っている写真集を紹介。
これ、川島小鳥の『未来ちゃん』。
一見すると梅佳代系のほのぼの写真集に見えるが実は全く違う。
私にとってこの『未来ちゃん』は心の一番奥底にあるなにものかと共振して大きく揺り動かすほどのエネルギーを持った写真集だった。
まぁ実際どんなだかは見て頂くしかないのだが、その片鱗はgoogle先生で「未来ちゃん」と画像検索すればご覧いただけよう。
この写真集は外側から圧倒的なにものかを浴びせかけられるタイプの写真ではなく、自分の中にあるなにものかが揺り動かされるようなタイプとでも言おうか、北斗の拳でいえば直接的な外側からの破壊である南斗聖拳ではなく、経絡秘孔をつくことで体の内部から破壊する北斗神拳に似ているとでも言おうか、なんじゃそら。
本自体はどこぞの女の子「未来ちゃん」の一年をひたすら写し続けただけの写真集であり、
写真自体は単なる美でもリアルでも虚構でもファンタジーでもないし、この未来ちゃんは単に可愛らしいだけでも汚らしいだけでも元気だけでもいじましいだけでもない。
しかしこの写真集を初めて見て、直ぐに心の一番奥にあるなんか変なところに何かがヒットして突き刺さってしまった。
そしてそれからこの写真集を見ていると、なんか言葉にならない不思議な感情が湧き上がってくるのだ。
クルクルと変わる色々な表情を見せる未来ちゃんを見ていると人間の混沌そのものが美しいというか可愛らしいと感じられるというか…
世界と一体になって喜んだり泣いたりしている未来ちゃんを見ていると、世界は楽しかったり悲しかったりするけど、それでも世界は自分と一緒に喜んだり悲しんだりしてくれるのだと感じられるというか…
うむ、なんだか上手く言えないが、まぁアレですわアレ。
しかし、いったいこのアレはなんなんでしょうな?
この写真のモデルである「未来ちゃん」の魅力のなせる業だといえばそれまでやろうけど、
それでも現実に生きている未来ちゃんを実際に目の前で見たってたぶんこんな感情は浮き上がってこないに違いない。
その未来ちゃんの持つなにものかが写真によって固定されたり切り取られたり純化されていることで、写真の中の未来ちゃん、あるいは未来ちゃんの写真がこんなエネルギーを持つのでしょうな。
そして何より「未来ちゃん」って名前が良い。なんかこう希望が持てますわな。
じゃぁ「未来ちゃん」に対抗してこんなのはどうだろう。
何時もラジオ深夜便で古い歌を聞いて落涙し、口癖が「昔は良かった」で、人と会うと娘時代と戦時中の話ばっかりしている、この写真全部コピーじゃねぇの?って言う位の全く変わらない一年の写真で構成された「過去(かこ)ばあちゃん」、
あるいは、何日続けて徹夜しても、どんなにジャンクな食べ物ばかり食べても、どんなに男をとっかえひっかえしても、お肌も荒れないし太りもしないし自己嫌悪にもならない、コロコロと化粧と髪型と服装が変わっていて、この写真全部別人じゃねぇの?っていう程の毎日ひたすら遊びまくっている大学2年生の一年を撮った「現在(いま)さん」。
そんな二人の写真集はどうだろう。どう?
どうって言われてもなぁ…