永幡嘉之『巨大津波は生態系をどう変えたか 生きものたちの東日本大震災』

amazon ASIN-4062577674ツイッターとブログでつながりのある、けい。さんがブログで紹介されているのを見て、永幡嘉之『巨大津波は生態系をどう変えたか 生きものたちの東日本大震災』ブルーバックスを読んだ。
この本の著者はもともと自然の豊かさに惚れ込んで東北に移り住んだ、昆虫や植物の図鑑などの写真を撮るカメラマンであり、この本はその彼が愛したその豊かな自然が今回の震災によってどのような影響を受けたのか。というあたりが主題である。
この本の作者の専門は昆虫、中でもトンボ類と植物であるらしく、主に昆虫や植物とその生息域が震災直後から一年過ぎたあたりまでどういった影響をを受けてきたのかについての細かく丁寧で徹底的な調査が行われた結果がレポートしてある。
このあたりは虫好きや生き物好きにとって純粋に面白く楽しい話として読めるだろう。ハマベゾウムシなるゾウムシが可愛過ぎる。これは虫嫌いにとっては逆効果になるやろうけど掲載されている写真もとても良い感じだ。
結果から言うと海岸線が変わり、ありとあらゆるものを破壊しつつ津波が押し寄せて引いて行ったにもかかわらず、生き物たちは人間の想像する以上にタフに健気に生き残っていた。
私は大の淡水魚好きであり、この震災で福島県や宮城県のシナイモツゴやゼニタナゴなどの沿岸部の生息地が津波に押し流されて壊滅したという話を小耳に挟んで、実際のところどうなっているのかずっと気になっていた。
この本には淡水魚に関する調査は殆ど乗っていなかったけど、それでも、押し流された魚たちはきっとどこかで生き残っているに違いない。むしろ生息域を広げたかもしれない。と希望が持てるようになった。


人間にとって壊滅的だったこの震災の「津波そのもの」は、生き物たちにとっては壊滅的というほどではなかった。というのは大きなポイントであろう。
当初は塩が入って生き物が死に絶えたかに見えた水辺も塩が抜けると様々な生物が戻ってきている。
動植物の絶滅とは、その動植物が直接的な打撃によって死に絶えるというよりもその生息域そのものが消失する事を意味する。
例えば、水生昆虫や植物や淡水魚などの多彩な生物を育む微妙なバランスを保った湿地を一つ埋め立てるということは、そこに住む動植物を直接的に死滅させるということよりも、むしろその生息域そのものを消滅させるという意味で破壊的なのである。
津波は一時的にそこにすむ動植物を殺しをしても、生息域そのものは破壊しない。
受けたダメージは時間がたてば回復するし津波によって地形が変わったり運ばれたりして生息域が更新されることもあるだろう。
ダメージから回復した生息域には休眠していたり生き残っていたり別の場所から来た生物たちが再び暮らし始める。長い目で見れば、津波は生物にとって生息域の移動とリセットとして働くのに違いない。
震災後一年しないうちに、震災前までは殆ど目にすることの無くなってしまっていたミズアオイが人間の手の入る前は湿地帯であった場所に埋もれていた種から芽吹きいていっぱいの花を咲かせ、あたり一面が薄い塩水に満たされた畑跡に大量のメダカが泳ぎ、瓦礫の山の中でスズムシが繁殖し、ウミネコやコアジサシが壊滅した住宅地跡に巣を作っている様がこの本に載っていた。
人間のいなくなった土地で野生の生物たちがしたたかにのびのびと繁殖している様はなぜか妙に心を打つ。
徹底的な破壊からの復興を目指す土木工事は非常時ということで環境アセスメントを免除され、破壊を免れた様々な生物を育む海岸の砂浜を削り取り、塩が抜け始めた湿地帯を埋め立て、新たな堤防や道路の建設を急ピッチで行っているという。
それは震災を生き抜いた生物たちの生息環境にとって、二次災害どころか壊滅的な打撃となるに違いない。
この震災以前からずっとそうであったが、自然の生物は津波だの地震だのの自然災害では滅びない。人間の無意識的で徹底的な開発によって滅びるのだ。
この本を読めば言外からその事がはっきりクリアに伝わってくる。
「人間の進歩が自然環境からの搾取」であるのなら「地球や自然環境のためには人間なんかいないほうが良い」てな感じの命題は反論の余地が無いくらいに圧倒的に正しい。
しかし、だからといって短絡的に「ならば人類を滅ぼすべきである」となると厨二病的な発想になる。
また「文明を捨てるべきである」「科学技術の進歩をやめるべきである」「地獄の業火に投げ込むものである」など色々な派生パターンも、ちょっと弱気になっただけで方向性としては同じである。
なぜなら、人間の進歩は自然環境からの搾取であると同時に、自らの種を助けるものでもあるからだ。
人間が進歩することによって医療や食料や居住の問題を解決し人間は死ににくくなったし豊かになった。
どこかに科学技術の上限を設定するということは、どこかに切り捨てるべき人々のラインを設定することをも意味する。
「地球や自然環境のためには人間なんかいないほうが良い」と理解した上で、それでも生きていたいし、楽しくて心地よい生活を送りたいという欲望とどう折り合いをつけるのかというところに人間の業があるし、そして知性がきらめく余地もまたある。
人間は進歩したけど堕落したとか、哲学はギリシャ時代より全く成長していないとか言われるが、私は歴史を振り返ってみれば種としての人間は間違いなく成長し成熟していると言えると思う。
数百年前までは当たり前とされていた人種や性別や性向などに対する様々な差別や、数十年前には当然の事として行われてきた子供や動物に対する様々な形の虐待も、実質的に解消されているかどうかは別として、少なくとも人間と社会から遠ざけるべき悪として一般的な共通認識を得るに至っている。
専業化や分業化や均一化という意味で産業や技術の進歩を効率化して促進させてきた、奴隷制度や全体主義などのような特定の弱い存在を圧倒的に差別して支配する手法を自ら捨てたのだ。(現代の奴隷制度と全体主義は形を変えた。という話はちょっと置いていおいて…)
それを進歩といわずして何と言おう。
そして、ほんの少し前までは概念さえ存在しなかった環境保護だとかエコだとかいう言葉も、実質はどうであれ正しい方向性として共有されている。
しかしこの環境保護とかエコ、最近では「生物多様性」なる概念は新しすぎる概念ゆえか見る人や実行する人によって全く受け取り方が違っている。
例えば良く話題にされるタイプのこんな例、池に一種類のトンボしか飛んでおらずコイがうじゃうじゃ泳いでいるのをとても悲しく思う人と、トンボも魚も沢山いるなんてめっちゃ自然やん!という人の間にある意識の違い、また、魚が少なくなった河川にキンギョとヒメダカを放流するのを見て、環境破壊と遺伝子汚染にしか見えん人と、お魚さんが増えて自然が戻ってきたーと感じる人の両者の意識の間には決定的な認識の違いがある。
しかしこのギャップは環境保護やエコに関する思い入れや熱意のギャップなのではなく、生物に関する知識や想像力や経験のギャップである。
先の例で言えば狭い水域に沢山の鯉しか泳いでいないということは、それがその場にある全ての水草と砂に埋もれた二枚貝と口に入る捕獲できる全てのものを食い尽くした後であることを意味するし、そんな水域にトンボが飛来して産卵しても繁殖することは難しい。キンギョとヒメダカを自然環境に放流することは在来のフナとクロメダカという種を飼育用品種との雑種化という手段で絶滅の方向性に導いていることも意味する。
様々な差別に晒される人の苦しみが宗教学や哲学や社会学的な知によって明らかになったように、様々な種類の虐待に苛まれる子供たちの苦しみが心理学や精神医学的な知によって明らかになったように、遺伝子的だったり生態学的な生物に対する知によって今まで聞き取れなかった生物の苦しみの声が聞こえ、見えなかった苦しみが見えるようになるわけである。
神学や哲学や社会学の生んだ正義や自由や平等の概念が一般化したように、精神医学や心理学が子供や人間の健康な成長についての考え方を一般化しつつあるように、生まれたばかりの環境問題やエコロジーの考え方もやがて様々なジャンルの方向性から統一されて一般化されるだろう。
それになによりもこれだけ大きな被害があった震災に対する復興の各種活動の中で免除の文脈であれ「環境アセスメント」が言及されること自体が大きな進歩であるとも言えるし、この本の中では政府の環境アセスメントフリーな復興事業とは裏腹に現場レベルでの鳥類の営巣地の保護などが行われている実例もあり、確実に日本人の環境意識が進歩していることの実例でもあるだろう。
この本の中に、震災の悲惨な状況の中で、動植物の安否を気遣うのが果たして正しいことなのかという葛藤について書かれている箇所がいくつかあった。
被災地でも様々な鳥類や樹木や昆虫や淡水魚などの保護団体が様々な活動を行っているが、彼らが余り声を大にせず、また彼らの活動も余り伝わってこないのは、著者の感じた葛藤とは無関係ではないだろう。
しかし、過去に人間の進歩の煽りを食らって隅に追いやられたり迫害されてきた小さいものの声に気づき耳を傾けることが人間の成長や成熟の原動力になってきたのだという歴史認識の考え方から言えば、普通の人には見えないトンボや昆虫、鳥類や樹木や魚の苦しみを感じること、そしてまたそれを一つの知として提供することは、とても大きな意義があるといえると思う。
この本を読むことは震災を切欠にして環境問題をとらえなおす切欠になるだろうし、また目に見えない場所で声を上げずに苦しむものたちの声を聞くことでもある。
また近頃よく言われる「復興とは何を意味するのか」という点についても一つの視点と見解を与えてくれるだろう。
長い目で見れば、津波は生物にとって生息域の移動とリセットとして働くのに違いない。と最初に書いたけど、
種としての人間にとっても、この津波が様々な成長と成熟の切欠になればいいなと思った。

2件のコメント

  • こんにちは、こちらこそ、こちらでははじめまして。
    けい。さんが紹介されていたからこそこの本を読むことが出来ました。
    こちらこそきっかけを与えて頂きありがとうございますです。
    おまけに誤字脱字の添削まで…
    ツイッターではduguですが本来は土偶です。でもどっちでもかまいません。
    リンクもどうぞ、こちらからもリンクしておきます。
    ではでは。。。

  • こんにちは。こちらでははじめまして。
    どうぞよろしくお願いします。
    ご感想読みなおしてきました。最初は、生き残っていたという言葉が少し疑問に思ったのですが、本を最後まで読んだら、確かに生き残っていたと思えました。苦しみを感じること、知として提供することという言葉は、すごいですね。ご感想のおかげて、本から広がりを持っていろいろと考えさせられるきっかけを与えていただきました。それこそ、知として提供していただいてありがとうございます!
    ところで、よろしければこちらのブログを私のブログのブックマークにリンクさせていただいてよろしいでしょうか?
    そういえば、土偶さんとお呼びしたらいいのかdoguさんとお呼びしたらよいのか微妙に迷ってます。。。

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