アゴタ・クリストフ『第三の嘘』
仕事から帰ったらアマゾンから届いていて読まれるのを待っていたので、望み通りにしてくれるわ。と早速読んだ。
アゴタ・クリストフ『第三の嘘』を読了。
『悪童日記』『ふたりの証拠』に続く、悪童三部作の完結編であり、前二作の構造が全貌を表し、双子を巡る物語の本当の姿が現れる。
アマゾンでは評の全てが星五つで(7件中やけど)、物語として複雑な構造になっているけど、星五つに相応しくとても面白かった。
前作同様感情的な表現は皆無で、動機や原動力や目標として、自分が抱きうる物としての夢や希望や救いなどと言った概念は気配すら皆無であり、最初からそういった物の存在すら前提していないように読み取れる。
この説明口調から浮かび上がってくる、前作二冊と相まって増大する、深い絶望や虚無感か繰り出す破壊力は抜群である。
並の鬱なら軽く「リストカットの夕べ」や「睡眠薬の夜更け」に叩き込まれるだろうし、耽美的傾向を持つ主観からではなく、論理的帰結として述べられるその結論は、読者に何らかの立場や意見をはっきりさせる事を迫るようでもある。
何かを書く事は救いや自己療養に繋がると言うような事がよく言われるけど、作者のアゴタ・クリストフはインタビューの中でこの考えを真っ向から否定している。
彼女にとっては、彼女自身の言葉を借りれば「書けば書くほど、病は深くなる」「書くというのは、自殺的行為です」と言う事になる。
『悪童日記』で仄めかされた希望と可能性は、次作の『ふたりの証拠』で否定され、さらに最後の『第三の嘘』で前二つの物語があるゆえに今の絶望が深く感じられ、これからの物語が続く余地さえないくらいにどうしようもないところに追いつめられ、根本的に全てが破綻する。
確かに彼女の言うように、三部作が進むにつれ、書けば書くほど絶望は深くなり、どんどんどうしようもないところに追いつめられてゆく印象を受ける。
そして作者だけでなく、作中の双子も「書く」事によってどんどん自分を追いつめていた。
「書く」事が病的な側面を持ち始め、書けば書くほどその病は治るどころか酷くなってゆく。
「書く」という行為に潜む病理と、「書く」事を続ける事でよってどんどん病が深まってゆく様を、作者と作品と主人公が再帰的に表現しているように思えてならない。
また作者は、これもインタビューで「書く」ことについて先に述べた意見に続けて「それでいて、避ける事のできない、必然的な行為なのです」と言っている。
書けば書くほど病が深まるにも関わらず、書く事は必然的だと言う彼女の意気込みを感じるし、また彼女の書く事に対する真摯で前向きで真面目な態度はある種の信仰者のようでもある。
しかしながら、彼女は明らかに救いなんか全く求めていないようにしか見えないし、何ものも求めていないようにすら見える。
本とは関係なく、作者自身への感想や印象になってしまったけど、更に関係ない話として、
何ものも求めない事が、苦痛を取り除く手段の一つであり、あらゆる物の否定が何ものかの創造への準備の一つである。
そういった事はもしかして根本的に間違いなのだろうか?
などと思った。