ボーヴォワールはこう言った。/「自由であること」

ボーヴォワールと言えば『第二の性』でお馴染みの実存主義の思想家や文学者であり、ジェンダー論とかフェミニズムの分野でも語られることが多い。

フェミニズム的な視点から女性を隷属させるシステムであるという結婚制度や家族制度を否定しながらも、生涯共にあったサルトルとの関係は、色々な文学の題材や映画にまでなるほど有名である。
男性の言う「自由」が自らの欲望の拡張を求めているようにしか見えないことが多いの引き換えに、女性の言う「自由」は欲望の正常化を求める切実なものに見えることが多い。

amazon ASIN-4582760511『ボーヴォワールは語る―『第二の性』その後』を読んで、気楽で自由奔放に見えた彼女が如何にその自由を維持するためにエネルギーをつぎ込んでいたのかが良くわかった。そして「人が自由であること」をどれだけ大事なことであるかと考えていたのかも。

彼女は才能にも知性にも容姿にも恵まれ、普通の人々に比べれば大きな力を持っていた。
彼女ほどの力があれば、適当な社会システムに組み込まれて無難なところで落ち着き、人生を面白可笑しく楽に生きてゆくのはそれほど難しいことではなかったように思う。

しかし彼女は、そんな生活を選ばずに、その力の殆ど全てを「自由であること」につぎ込んで、既成の社会やシステムや慣習や声と戦いながら、ギリギリのラインで生きていたように見える。

女性は平等を与えられたいのではなく獲得したいのです。これはまったく別のことです。

って言葉が彼女の意気込みをあらわしているように思える。


当時、少なからない数の女性が彼女の生き方に憧れを抱いていたように、ボーヴォワール自身も自分自身が一つの生き方のモデルタイプであり、後に続く人たちに道の一つを作って見せようと意識していたことがとても良くわかる。
しかし、彼女のように自由であり続けながらその姿を晒すというのは、生半可な気持ちで安楽なイメージの<自由>に憧れる人に対して、それがどれだけ茨の道であるのかを示すという警告の側面を持っている。
彼女自身は自らの生き様で「<自由>であることはこんなにも素晴らしい」と示そうとしていたけど、一方で「<自由>であることはこんなにも苦しく大変である」ということも同時に示す結果となった。

人間が自ら何かしらの枠に入り込んで自分を型にはめることで安楽を得る生きものだとしても、自らと自由の価値を信じ自由を貫くのは余りにも難しいし、あまりにも強くなければいけないのだ。

自ら超人の先駆けとなって苦難の道を歩むボーヴォワールは、フェミニズム界のツァラトストラとも言えよう。

でもまぁ、「恋愛」をただただ個人的で個別な問題で済ますのではなく、社会で共有されるべきソーシャルに重要な問題の一つとみなすのはとってもいかにもフランス人といった感じだぞ。

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