『イロニーの精神』ウラディミール・ジャンケレヴィッチ/殉教者でもレジスタンスでもなくサバイバルするイロニストなる超人

amazon ASIN-4480083782 ほんとに久しぶりに哲学とか思想とかそういった類の本を読んだ。ウラディミール・ジャンケレヴィッチの『イロニーの精神』である。

ウラディミール・ジャンケレヴィッチなる人物は1985年に死去した、「分類できない哲学者」とみなされているような、独特の思考を展開したちょっとマイナーな哲学者である。

音楽にも造詣の深い、音楽論も多数遺している、自らも演奏家だった思想家であるというところに妙に興味を引かれて読もうと思ったのだった。

イロニーというと日本人である我々にはせいぜいアイロニーとして「皮肉」と訳されるくらいで余りなじみは無い概念であるけど、訳語の「皮肉」とは全く意味と印象を持つ言葉である。
イロニーとはソクラテスが特定の何かについて全く知らないふりをして、名高いソフィストに「私はそれについて知らないからちょっと教えてくれ」的に議論を仕掛けて相手の中途半端さ加減を暴いてしまうような、「すっとぼけ」といってもいいような方法論に端を発する、西洋圏では一つの形式とされて確立されているスタイルである。
しかしこれは相手のソフィストに恥をかかせたりとっちめたりすることを主目的とするのではなく、「その特定の何か」の本質に迫ろうという動機を持ち続けているところに意義があるのだろう。
したがって、よく小学生とか中学生がドヤ顔で「数学の勉強が人生で何の役に立つんですか!」などと先生に質問してしまう類のアレは、本人がそれを知りたくてそれなりの考えを持っているのに知らないふりをして質問しているイロニカルな態度なのではなく、ただ先生を困らせて先生の権威を貶める為の質問として確立された作法を反復している、シニズムに侵されたただの嫌なガキの皮肉に過ぎないということになる。
「イロニー」の本質はただ知らないふりをするところにも相手を罠に掛けるところにもあるのではなく、ソクラテスのように「無知の知」として知ってるような気もするけど本当は自分が何も知らないのを前提として智に至ろうとする方法論にあるという事になるだろうか。

この本の中でジャンケレヴィッチは「イロニー」の生まれた歴史や混同されがちな良く似た概念である「演技」や「嘘」、「ユーモア」や「パロディ」、犬儒主義やロマン主義と違う部分を論じ、イロニーがいかなるものでどのような力を持つかを述べている。
彼によればイロニーの素晴らしい点はその軽やかさやおかしみ、一つのところにとどまらない柔軟性にあるという。
キリストの磔刑がひたすらシリアスな悲劇でしかないのに引き換え、ソクラテスが毒杯を仰いで死んだのは、どこと無く軽やかさと柔軟性のあるおかしみを誘うイロニーであるといった例を引いていた。

たしかにキリストはひたすら神の真の律法に従って一直線に突き進み、常に深刻で切羽詰って見えるのに引き換え、ソクラテスは柔軟に軽やかにその智を深めるべくあたりをブラブラしていた。彼は偉大であるにしろどことなしに笑える存在である。
無実の人が処刑される事そのものは悲劇でしかないのに、ソクラテスの刑死は「自分が罪人ではないのを知っていながら罪人として死ぬ」命を掛けたイロニー、として体を張ったギャグのように捉えられるのは彼のイロニカルな態度のおかげという事になるわけである。なるほどー。

プラトンの本の中でソクラテスがうだうだ言っているのを読んでいて「実はソクラテスってすっとぼけてるんじゃなくって本当になんもわかってないだけなんじゃないか?」という考えがふと頭をよぎったりするけど、これこそ自らのイロニーすらイロニカルに扱う本物のイロニストということになるだろうか。

宗教的な解脱だとか悟りだとか到達点のようなものを目指す態度や手法が深刻で重々しくなってしまいがちなのに対して、本当にそこに至ってしまった人は逆に軽やかであるとか、悟ってしまった人は自らの悟りからも自由だとよく言う。

深刻になることなく真理に近づこうとするのはとても難しい、真面目になろう、一つの事を見つめようとすればするほど深刻になってゆくし切羽詰ってしまう。
とにかく一つの立場や考え方に凝り固まってしまわない考え方、何もにもとらわれずなおかつ真理に到達しようとする方法論としてイロニーはとても有効だということだろうか。

古来から根強くあるような、とにかく重々しいことは価値のある事のように扱われがちな態度をニーチェなんかは「重力の魔」などと呼んで毛嫌いしていたけど、このジャンケレヴィッチのいうイロニーの軽やかさにもそういったニュアンスがあるように思う。
そして、イロニーに似て非なる嘘や演技やパロディや笑いが結果として自らを縛ってしまうのに引き換え、イロニーは自らのイロニカルな立場にすら捉われず、あらゆるものから自由であるということは、どこと無く自らの悟りにも捉われない悟りに近いような気もする。

友は一人もいない、愛される値打ちのあるも女性は一人もいないということ、全ては金銭的価値に換算され、結婚は取引だと考えること、尊敬、愛、羞恥心を呪うこと、人間を侮辱すること、こういったことは絶望することではなく、かえって、愛の偉大さ、理想、無限の価値を発見することである

コレなんかはちょっと読むととてもびっくりするけど、良く考えてみれば、本気でそう思っている人たちばかりの末法的な世界の中で、そういった人たちに紛れてそんな価値を発見しつつ、レジスタンスにも殉教者にもなることなくサバイバルするには、こういったイロニーを持ち続けるのが唯一の方法なんじゃないか?とすら思えてくる。
でももうここまで行ってしまうと完全に理解の範囲を超えている。なんかもうニーチェの言う「超人」としか思えないですな。

そのニーチェの『ツァラトストラはこう言った』が純粋な哲学書というよりは文学だと思えるのと同じように、この本は全体として哲学書や思想書であるような印象を受けなかった。
じゃぁ何だというと難しいけど、訳者が「哲学作品」と呼んでいたようにまさにそんな感じである。
この本は難解な哲学や思想の用語を使用する替わりにやたらと具体例が出てくる。
ソクラテスからキルケゴールまで新旧の哲学者だけでなく、文学やら音楽やら絵画といった芸術の分野まで駆使しして、具体的な部分を指し示して説明しようとしてくれている変な優しさがやたらと伝わって来た。
何というか、教養も経験もたっぷりある上等な服を着た紳士が、静かなお店でご飯を食べながら、ゆっくりと丁寧に優しすぎるほどにうら若き乙女に対して説明しようと語っているような印象である。
曰く

イロニストは深遠であろうとはしない。そのかわり、この上なく軽やかで、ほとんど重さのないような接触の仕方でパトスに触れるのである。

うーん素晴らしい!!いかにもおフランスといった綺麗な文章ですな。更に誉めてるのか貶しているのかわからない所も良い。まさにイロニカル!

なんか今まであらゆることをドイツ的に深刻に考えようとしていた気がする。そんな態度は自分自身だけじゃなくって、私を見ている人まで重苦しい空気で包んでしまうような気がする。

このいかにもフランス然としたイロニーを持つことは自分にとっても周りにとっても大事だと思いました!
という小学生の読書感想文的な結論に落ち着くのであった…

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