エーリッヒ・フロム『愛するということ』
だいぶ前に古本屋から連れて帰ってきたまま肥やしになっていたエーリッヒ・フロム『愛するということ』を昨日と今日で読了。
彼はフランクフルト学派の新フロイト派、フロイト左派とか分類されるユダヤ系ドイツ人の社会心理学と言うことになるんやろうけど、後年は仏教や禅の研究にも勤しみ、鈴木大拙とも関わりが深かったらしい。
タイトルと装丁と帯はかなり恥ずかしい痛い系の本のようでイヤイヤだが、オリジナルが1956年に出版された結構硬派な本。
「恋愛」の本やと思って読むといきなり「恋愛」を否定されてびっくりするやろうね。
さすがに有名な本だけあって面白かった。
なんというか、この本がベストセラーであると言うことは、この本に書いてあるようなことを皆が読んで「善し」としたり「然り」と思ったりしているわけで、そういう見方からすれば世界もまんざらでもないなと思った。
一般的に「愛」などというと大体「恋愛」を指す事が多く、「恋愛」を含む「愛」の能力が世間ではどちらかと言うと先天的なものであるとされているいう筆者の指摘は確かに頷ける。
そういった一般的な見地に立って見た場合の色々な具体的な事実や象徴的な出来事から、自分には人を愛する能力が根本的に欠落しているのではないかと疑わしく思っている人間にとって、筆者であるフロムが言い切る「愛とは技術である」と言う主張は、少なくとも技術である以上訓練によって上達することができるという意味合いから、ある種の救いとして捉えることができるだろう。
Aと非Aは同時に存在しないという大前提を持つアリストテレスの論理学に始まる西洋的な思考体系が「論理」を重視したのに引き換え、東洋思想によく見られるAかつ非Aが同時に成り立つ「逆説論理学」なる体系は理性での知覚を放棄しているので、最終的な段階として「道(タオ)」や「道諦」や「八正道」で表現されるような「行動」を重視するという例をひいて、その「愛」は逆説論理的な概念であるからして、「愛する技術」を習得するには、思考パターンや日常生活の習慣と言ったレベルでの行動を積み重ねる以外に無いとしている。
それでもその「技術」は、例えば世界との一体感を経験したり、対立概念を同時に肯定したりするような手法を技術と呼ぶレベルで「技術」であり、考え方や視点の転換と言うよりは、自分自身のかなり大きな変革を起こす、もしくは起きるのが前提になった技術であると言うことになるように思う。
結局言い切ってしまえば神秘主義的な話やけど、最初から最後まで神秘主義的な語彙で埋め尽くされた同じような内容の「真実の愛」なるものを扱ったエセ科学だかエセ哲学だかエセ宗教だかわからんような本は多分多いと思う。
それでもこの本の目指している(と思われる)逆説論理的なるところを想定される読者に合わせて論理的なアプローチで説明しきろうとしている所の意義はかなり大きいのではないか。
結局、Aかつ非Aなる体系も確実に存在するって事で、それは論理で理解できない以上実践と行動によってしか体験できないと。
まぁ、いずれにせよこの本を読んで、自分の行こうとしている所と自分がやっていることは間違ってないと勇気付けられたような気がする。
とにかく土偶の行動の根本原理を「エウ・ゼーン」としておこうという気にはなった