スティーヴン ミルハウザー『エドウィン・マルハウス』

スティーヴン ミルハウザー『エドウィン・マルハウス』を読んだ。
作者は1943年生まれのアメリカの作家であり、1972年に書いたこの作品でデビューした。
小さい頃から利発で秀才とも呼べるジェフリー・カーライト少年が11歳の時に書いた、彼の隣の家に住み兄弟のように育った、10歳で不朽の名作『まんが』を著して11歳で夭逝したエドウィン・マルハウスについて伝記である。という設定の小説。
11歳の生涯が、幼年期、壮年期、晩年期の三部に分けて事細かに綴られる。子供時代の瑞々しくも輝きに満ちた日々はどんどん流れて行き、迫り来る死に向けて緊迫感は否が応にも高まってゆく。
ネットでやたらと誉める人が多く、設定が設定だけに子供独特の世界の見方とか感性とかをまったーりとお花畑な雰囲気で書いてあると思っていたけど全然そうじゃなかった。特に「晩年期」は読み進むにつれ何とも胸苦しく緊迫感が高まってゆく。
「子供」を神格化するわけでもなく、ただ残酷な存在とするわけでもなく子供特有の世界が綴られるわけやけど、子供が嫌いな人には退屈な話となり子供が好きでたまらん人には耐え難い話となる構造を持つのではないだろうか。


amazon ASIN-4560047685通常、我々は「言葉」と「意味」を分かちがたく一つのものの様に捉えているけど、幼年時代のエドウィンは「言葉」をただの「音」として認識おり、彼が成長して「言葉」に「意味」があると知ってからは、「音」として美しく完成されて調和していた「言葉」は意味によって汚され堕落してゆくものとなったようである。
考えてみれば「意味」の世界は大人の世界でもある。幼年期に「これなに?」と「名前」を問う事があっても「意味」に興味を持つ事はないだろう。
エドウィンが幼年時代の「音」と「名前」の時代を頂点として、そこから年をとっていくことがある種の堕落であると見なしていたように思う。
「言葉」の堕落を苦々しく思うエドウィンが『まんが』の執筆にあたって「言葉」自体に悩まされ続ける事になるのは皮肉といえば皮肉である。
自分の中にあるものが言葉にならない苦しみを皮切りに、すざましい創作の苦しみが彼を苛み続けるわけやけど、全てが完成した後に訪れる絶望的な空虚感もまた恐ろしい。
彼を突き破って言葉が抜け出たように、「言葉」のもつ恐ろしさが存分に伝わってきた。
しかし一方で、エドウィン・マルハウスは『まんが』の作者として伝記中で扱われるわけであり、「僕がいなければ、エドウィン、君は果たして存在していただろうか?」というように「存在」を「意味」として示すのも言葉なのである。

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