東谷暁『経済学者の栄光と敗北』/経済学で世界を救おうとする勇者たちの物語

東谷暁『経済学者の栄光と敗北』を二週間ちょっとかかってやっと読み終わった。

ちょっとした新書本の三冊分はありそうな分厚さと、脚注を書籍内に収めずにネットで参照するようになっていたりととても中身が詰まっていた印象である。

前に読みはじめた時にエントリを書いたように、ケインズ以降の主要な経済学者を性格から生い立ちから性的嗜好といったところまでも絡めて、彼ら本人の問題意識と彼らの主張した考え方の解説がなされていており、経済学の知識はもちろん純粋な読み物としても面白かった。

以前に山形浩生訳でポール クルーグマン 『クルーグマン教授の経済入門』を読んだけど、そこに至るミッシングリンクが繋がったような感じだ。

ノーベル賞なるものは、例えば、物理学賞、化学賞、医学生理学賞などはその受賞した学説が有用性と確実性が認められたものであるというイメージがあった。

同じように経済学もノーベル賞の対象であり、ノーベル経済学賞を受賞した学者とその対象となった学説も、物理学賞、化学賞、医学生理学賞などと同じように確実性と有用性が認められたものだと思っていたけど、しかし、ノーベル経済学賞はその時点である程度近い過去の経済的現象を説明したり、近い将来の経済学的未来を予想したり、ということが認められただけで、ミクロにしろマクロにしろ経済活動の全ての状況を完全に説明することのできる確定的な理論やら法則なんか無いのだということがこの本を読んでよくわかったような気がする。

ほんの数十年の世界的な経済的な歴史を見ても、ケインズ経済学で景気が持ち直したと思ったら恐慌が襲い、新自由主義に転換することで経済が息を吹き返したと思ったら相場の暴落につられて恐慌が起こり、またこんどはケインズ経済学が見直され始める。と言った風で、結局ケインズの説いた「不確実性」だけが経済学的な「確実性」を持ってるわけでなんとも逆説的だ。

考えてみれば、経済学っていうのは時代によって状況によってベストの解や理論が180度コロコロ代わってしまうわけであり学問としてかなり不毛な対象になると思うけど、でも、それでも経済を世界の根本的な問題と捉えて果敢に挑む姿に人間の徳性を見るような気がする。

秀才だったミルトン・フリードマンは学生時代に数学と経済学のどちらを自分の専門として選ぶかという時にこう考えたそうである。

四人に一人が失業していた1932年に、一番の緊急課題は何かと考えれば、経済学を選ぶに決まっている。自分自身、経済学を研究することにまったく戸惑いは無かった

彼の唱えたマネタリズムが導いた新自由主義は先進国の格差をより広げたと言う見方もあるけど、彼自身は自身の私利私欲のためではなく、世界を救うためにそういった結論を導いたのだ。

結局、この本を一言で言うと、「経済学で世界を救おうとする勇者たちの物語」というのがぴったりするように思う。

そして経済学だけでなく、あらゆる学問は世界を説明するだけでなく、救おうとする試みなのですな。

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