金森 修 『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』(シリーズ・哲学のエッセンス )

amazon ASIN-4140093080土偶小屋にはアンリ・ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論 』が最初のちょっとだけを読まれただけで転がっており、これからも恐らく半永久的にそのままであろうと推測されるのだが、ベルクソンに興味があれこそそんな本を買ったわけであり、この『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』(シリーズ・哲学のエッセンス )は職場の図書館で哲学の本棚のあたりをぶらぶらしている時に目にして思わず借りちゃった次第である。
しかしながら、図書館の本棚に並んでいて目に付かなければ読む事は無かっただろう。積極的に調べて予約したり書庫に入ってまでは借りなかったと思う。
何でもかんでも棚に並べておくのではなく、厳選した物を並べておく事の意味がここにある。
情報は量の多さで情報としての価値を測るのではなく、質の高さで測るべきであり、まさに、この本にはそういう事が書いてあったのだった。
読んでから気付いたのだが、アマゾンではやたらと評価の高い本でもあった。
そして、確かに面白かった。著者の人柄と言うものがベルクソン思想の解説を突きぬけて表に出てきており、そこがまた良かった。
私は殆ど全くと言って良い程ベルクソンについても彼の思想についても知らないので、この本を読んだ範囲内の話にしかならないのを断った上でこの本について書いてみる。


この本はベルクソンとその思想についての入門書という位置づけであり、ベルクソンの著書の「時間と自由」「物質と記憶」をテキストに、時間、知覚、記憶についての彼の思想を入門的に解説したものであるという事になっている。
一章では我々が通常、一般的に理解している、秒や分といった単位で区切られた量的な「時間」の概念に対する、ベルクソンが主張する「質的」な「純粋持続」という時間概念を解説している。
乱暴に言えばクソつまらん何がしはやたらと長く感じるのに、楽しすぎて美しすぎて可愛すぎる時間は一瞬で過ぎるというあれであり、それこそが人間が人間である上での正しい時間認識であるとする話になっている。
二章は一章の「純粋持続」を根拠にした、主に「知覚」を主体とした「過去」「記憶」「自由」の話である。
今まで精神界と物理界に隔てられていた、「コップが机の上にある」などの肉体的な「知覚」と、「カラマーゾフの兄弟を読むと感動する」といった精神的な「知覚」に質的な差異を設定する事で同一の次元にあるものとし、「過去」「記憶」を質的な差異として結合し肉体と精神の境目を放棄する。
さらには概念の知覚のレベルで内と外、精神と肉体だけでなく、自分と他人の境界すら溶解して融合した共通の認識である「純粋知覚」を設定する。
まるで某エヴァの「人類補完計画」のような話であるけど、そこから議論は、生まれて初めて知覚するはずの物でもその「純粋知覚」の影響下から逃れられないうところに展開する。
そこから「人は過去から逃れられない」という話になるわけやけど、だからと言って人間が不自由になるのではなく、依然人間に起こり得る事は予測不可能でどうなるかわからないわけで、逆にそこにこそ人間の自由の根拠は開かれているとする。
ニーチェと同じく「生の哲学」なる系譜に入れられる事が多い(らしい)ベルクソンであり、そのあたりのエッセンスは確かに読み取れたような気がする。
ただこれが正当であり、または正確な理解であるかは全くわからないのも当然といえば当然である。
だから、「ベルクソンさんがこういう事を言っていた」という事を読む話である純粋な読み物として読むのがいいのかもしれない。
そして、読み物としても文句なしに面白かった。

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