小泉 義之 『レヴィナス~何のために生きるのか』(シリーズ・哲学のエッセンス)
この間から余りのお手軽さに戸惑いを覚えつつも、ついつい手に取ってしまう『シリーズ・哲学のエッセンス』であるけど、今度は『レヴィナス~何のために生きるのか』を読了。
なんというか「何のために生きるのか」という思いっきりなタイトルに惹かれた。市立の図書館で何故か欠本状態だったので、職場の図書館で借りた本である。
で、タイトルにもなっている「何のために生きるのか」と言う問いはレヴィナス自体が立てたのではなく、この本の著者である小泉義之がレヴィナスの思想、つまりは「生殖の存在論」なる他者や欲望や性に対する思考のたどり着いた所から答え得る問い、として逆に立てた問いという事になるようだ。
しかしながら、私にとってはかなり難解であり、とても理解できたとは言いにくかった。この事自体は私自身の理解力の問題もあれば、レヴィナス思想の深遠さという側面もあるだろう。
ただ、レヴィナスがどういう事を考えようとしていたのか、どんな事をテーマとしていたのかは良くわかった。そして、こういった入門的な本にとって、ある意味ではこの到達点で十分なのかもしれない。
著者の小泉義之は冒頭で出し惜しみせずにレヴィナスのその問いに対する答え「死ぬために」を提示して、それが「自分のために、他者のために、人類のために、死ぬために生きる」という帰結になる所を説明して行く。
一章では記憶以前に前提されている「契約」たる生存本能や運命や自然法則を前提に、生きている事自体が「享楽」たる肯定的な状態であるとする所が説明され、二章では言葉の利用で自分自身を他者として分裂させ、「言葉の受肉」によって私が他者と連結され、そこから自分のために生きるが人類の為に生きるになる論理が説明される。
そして三章で今までの二章と、「敵すなわち神」による殺人たる「自分の死」、肉体的存在の肉体的享楽の善たる側面の生殖、一人の人間は一個の存在ではなく、自分に生殖細胞が加えられた1プラス0.5の存在であるとする話から、生殖を前提とした人間の存在論が展開され、人間存在のリレーとして死んで行く事に生きる意味があるとする結論に至る。
という構成になっている。
「何のために生きるのか」ってのは考えない人にとっては問いを立てる必要性自体がない問いやけど、考える人にとっては余りに切迫した問いであるだろう。
しかしながら「何のために生きるのか」という問いは、構造的に「生きる事に意味があるのか」と言う問いに「ある」という答えを前提した上での話になるはずである。
「生きる事に意味は無い」と前提する人にとって「何のために生きるのか」という問いは問いとして成立しないし、逆に、「生きる事に意味がある」とするためには「何のために生きるのか」に答える必要が絶対にあるはずである。
「生きる事に意味は無い」とする人に対して「生きる事に意味がある」事を証明するには「生きる事の意味」を提示して見せる必要があるのである。
この本での小泉レヴィナスのいう「何のために生きるのか」に対する答えは「生きる事に意味がある」と前提する人にとっては何らかの答えの一つとしてありうるやろうけど、「生きる事それ自体に意味は無い」とする人の考えを突破するだけの威力は、正直言って無いのではないかと思った。
小泉義之『レヴィナス 何のために生きるのか』を読んだ
小泉義之『レヴィナス 何のために生きるのか』を読んだ。薄い本だし、二、三日で読んでしまった。勉強になるし論じられている内容も魅力十分だ。
疑問は、な…
その生殖の問題は小泉氏もこの本の中でとても誤解を招きやすいもので、散々色々な方面からの攻撃にさらされたと書いており、「肉体の享楽に溺れるというまさに生物的な(生物学的な、ではない!)営みにおいて、肉体のよい使用法があるとすれば、子供を生むことだけであるという事なのだ」と言ってます。
わかりやすいようで実はとて~もわかりにくいのがレヴィナスの思想だと思いました。
個人的には「普遍的な生きる目的」どころか、「生きる事自体に意味は無い」と最近結論が出て楽になりました。
とはいってもただペシミストであるのではなくって、その意味の無い世界でどう生きるのか。というのが私のテーマでもあります。
また難しい本を読まれましたね(笑)
「何のために生きるのか」、気になる人には難問ですね。
難しいことは書けませんが、私が直感的に感じるのは「生きる目的」は人それぞれによって違い、また年月を経ることでその内容は変化するということです。
「生きる目的」とは何か。それを問う人は明日も生きるつもりの人でしょう。自分が寝ている間に突然死するなんてあり得ない!と明日以降も自分の命が存続することを確信している人で、尚且現在悩みがある人がそうした問いを発するのだと思います。
そういう人は「生きる目的とは何か」ということではなく「明日は誰と何をして楽しもうか」ということを自らに問うべきです。
先を見つめ続けるから、果てのない乾いた砂漠の道のように人生が思えるから、その旅を続ける為の意味が欲しくなるのです。
もっと手前の道を見つめて、そこでの楽しみや達成感を想像する。そこへ行き着く為の努力をする。そういったことがイコール「生きる目的」になるのでは、と思います。
生殖を前提とした「生きる目的」は至極全うな答えだという気がします。しかし「少子化問題」や、子どもをなすことが出来ない方などが置いてけぼりになっているようにも思います。育児放棄をする動物がいたり、ヒトに至っては生殖行動は行えど子孫を残すつもりはサラサラない、という事実があることを思えば、やはり生殖を前提にした「生きる目的」は理想論のように思えてきます。
また、確かに人間は死ぬことを前提に生まれてきます。命のリレーをし、バトンを渡したからにはこの世から姿を消すのが世の道理。しかし、そうして「死」を迎えることはあくまでもゴールであって目的ではない、と私は思います。
人類全てに当てはまる普遍的な「生きる目的」というものは存在しないのではないでしょうか。
上記の論は短絡的で生涯学習の謳い文句のようでお恥ずかしいですが、私は毎日そう思って生きています。
(読んでもないのに小泉氏に盾突いてしまった……(-。-;))