『不滅』 ミラン・クンデラ

アマゾンでは
美しい女性アニェスと愛に貪欲な妹ローラ、文豪ゲーテとその恋人ベッティーナ…。さまざまな女性たちが時空を超えて往きかい、存在の不滅、魂の永遠性を奏でる愛の物語。20世紀文学の最高傑作。
本の帯には
ジョイス、プルーストで幕を開けた二十世紀の文学は、この小説で締めくくられる。
って書いてある。
この作者は1929年生まれのチェコ人で民主化運動に従事し、「プラハの春」で革命を支持したことから共産党から除名、発禁処分、市民権を剥奪、などと思想犯的に弾圧されてフランスに市民権を得て移住した。そういうこともあり、彼は反体制的な活動家や啓蒙家のような扱いを受けることが多く、彼の本は政治的な色合いで読まれる場合が多いように思うけど、ここではそういう視点を一切度外視する方向で述べる。まぁ俺がそのことに詳しくないというだけの話しやけど…


amazon ASIN-408773143Xちょっと前にこの作者の『存在の耐えられない軽さ』で「これのどのへんが恋愛小説か?」という印象を持ったけど、この『不滅』では「これが愛の物語?」という以前に「そもそもこれは小説なのか?」という印象を持った。それでも今まで読んだことのないようなテーマを扱っているという意味で、20世紀的であるということはわかったし、その問題は20世紀的には(21世紀的にも)大きな問題のひとつとしてあるということはよくわかる。(同時に俺があまりこの本で述べられているような20世紀的人間でないことがよくわかったのは別にして)
言い訳するわけじゃないけど、コンパイルの合間に読んでいたこともあり、ちゃんと意味を追えてないと思うけど、それでも乱暴に言ってしまえば、この小説の大きなテーマは「前時代的な不滅への欲望」「20世紀的な孤独」「価値としての感情」「同意できない世界でどう生きればいいのか?」あたりの順列組み合わせ、とまぁこんなところだろう。本当に乱暴に言ってしまえば。
この小説が20世紀的であるということを言ったけど、それはその中で扱われるテーマだけに限った話ではなく、小説としての成り立ちも、俺が今まで主に読んできたストーリーテーリングでドライブして行くような18,19世紀の小説とはまったく異なる趣を持っている。
18,19世紀的な主人公は主役として「ストーリー」という大きな波の中に飛び込まねばならない理由があったし、主人公を取り巻く登場人物も無二の存在として交換不可能なのものだった。
しかしこの小説では別々の時代の話が断片的に登場し、その話の中で同じ(ように思える)テーマを時代的な視点で扱ってゆくようなスタイルは、この小説の中での「ストーリー」が唯一的で本質的なものではなく、述べようとするテーマの具体例の一つを無造作にどこからから選んできたような印象を与える。ぶっちゃけ読んでてて混乱するし、読了後も18,19世紀的に長い小説を読み終わった後のようなカタルシスとか達成感は皆無であり、最後に収束するかに見えた話は空中分解し、突然現れた別の話がそこに接続される。この小説の主人公は「ストーリー」内にいるのではなく、誰かともわからない「語り」が、ジャーナリズムについて、エロティシズムについて、国家について語る「語り」こそがこの小説の主人公であり、登場人物はそれを説明する手段に過ぎないような感覚を覚える。
前時代的な目的だったものは現代的には手段となる。というように、彼の書く小説としての構成も前時代的な手法を20世紀的なものを表現する手段として使われているわけで、前時代をただ否定するだけではなく、ちゃんと消化た上でそれを使っているように見える様はなんとも好感を覚える。
彼の使う論理や考察に構成されるものが前時代的なモノ(音楽や文学や絵画)であるにもかかわらず、表わされているものはほとんど前時代的ではない。
「ソクラテスから哲学は進歩していない」という言葉を「普遍」の意味合いを含ませて言えば、前史の時代から現代になっても普遍的に扱われるテーマも当然あるわけで、彼はそこを現代的な知性でもって見据えているような気がする。この小説と作者が20世紀的な方法を駆使しているからそういう風に20世紀的に見えるだけで、実は根本的な発端として古典的な嗜好とテーマを持った小説である。という風に俺は感じた。
嗜好やテーマが発端として古典的であるとは言いながらも、それでも前作の『存在の耐えられない軽さ』でも見られた、彼の持つ肉体と精神のバランス感覚は、デカルト的な前時代の産物から築き上げた到達点であるように思う。
Linuxカーネルの開発者であるリーナス・トーバルスは「私がはるかかなたを見渡すことができたのだとしたら、それはひとえに巨人の肩に乗っていたからだ。」というニュートンの言葉を引用して、自分の業績は先人の上に積み上げられたものに過ぎない。というような事を言っているけど、ミラン・クンデラの姿勢もまさにその方向に乗ってっているように思う。
彼の前時代的なものを破壊することなく新しいものを創造してゆくやり方と、現代を見据えようとした着眼点は、やっぱり彼が政治的な活動をしていた事と無縁ではないのだろう。俺は政治的な作家をどちらかといえば好まないけど、彼のそういった姿勢を見るとやっぱりちょっと複雑な気分になる。
この本で俺は如何に自分が前時代的な考えや価値や論理にとらわれているかという事を悟った訳やけど、それでも現代的に考え、現代的に行動する事は必ずしも醜悪ではないのだということの実例を見たような気がする。
考えてみれば古い物好きの俺はジェームス・ジョイスもマルセル・プルーストも読んだことがないわけで、本の帯の「ジョイス、プルーストで幕を開けた二十世紀の文学は、この小説で締めくくられる。」を信じるとすれば、俺は18,19世紀の文学からいきなり20世紀の締めくくりの文学を読んだことになる。
そら面食らって当然かも。機会があればジョイスとプルーストも読んでみるかな。
熱中度     ★★★☆☆
考えさせられ度 ★★★★☆
影響度     ★★★☆☆
総合      ★★★★☆

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。

PAGE TOP