病院で人を理解したり人に理解されたりする事を思う

朝、病院に寄ってから出勤する。いつも思う事やけど、病院には何と人が溢れている事か。ここにいる皆がそれぞれ何かしらの病気を抱えていると考えれば何とも不思議な気がする。
それぞれの病気と心配事を抱えて病院に集う人たちを傍観者として見ていいても、そんな事は何も伝わってこない。
個別性なんてものが自分ではないものに理解される事が幻想でしかないように見えてくる。
恐らく自分が自分自身を理解して捉える事でさえそうなのだろうと思う。私の事を一番良く知っているのが私自身であるという当たり前のような話ももたぶん幻想なのだろう。
そういうわけで、他人に理解されなくて当たり前、他人を理解出来なくて当たり前である。と言えよう。
他人を理解し、または他人に理解されるのは殆ど不可能であるのかも知れない。
しかし、無限の可能性からゼロを選ぶに等しいルービックキューブの6面合わせが確実に可能なように、人間にとってそれは不可能であるとも言えない。


はたから見れば凡そ現実の物とは思えない6面合わせが、訓練と習慣付けによって簡単に習得出来るように、自分が理解されたり他人を理解したりする事も意外に簡単に習得できるのかも知れない。
考えてみれば、他人の理解や自分が理解されるというのは最終的な目的ではない。何らかの目的に向かうための条件であり手段であるはずである。
他者の理解と自分が理解される事で何を目指そうとしているのかこそが重要であろう。
他人に理解されず、他人を理解できないからといって、そこに留まるのはあまり得策ではない。
往々にして嘆けば嘆くほど相互の不理解は深まるばかりである。
相互理解そのものが最終目標である事は殆ど無いだろうし、一旦それを保留してそう言うものとしておき、別の道や手段でもって目指すものへ向かう事も大事やなぁと。
でもそれはどちらかと言うと、人間に対する信用の問題になってくるんやろうなと思った。

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