祝うと呪う

更にドラゴンボールの話である…もうちょっとだけ続くんじゃ。
私が小さな頃からずっと心に残ってきたシーンがある。コミックスでいうと30巻での人造人間16号の言葉である。
ドラゴンボールを良くご存知で無い人に説明しておくと、人造人間16号はドクター・ゲロというマッドサイエンティストが作ったアンドロイドで、同じく17号、18号というアンドロイドと共に、この漫画の主人公である「孫悟空」を倒すべく開発された。
昔にレッドリボン軍の天才科学者であったドクター・ゲロは、軍を壊滅させた孫悟空に恨みを抱きその復讐の為に人造人間を作ったと言うわけである。
dragonball30.png で、孫悟空を倒すために旅を続けていたその人造人間達は、とんでもない戦闘力を持ちながらも、襲いかかってきた相手にしか手を出さず、戦っても相手を殺さず、世界制服にも人殺し自体にも興味は無い、今までの極悪非道の敵キャラとは一線を画していた。
クリリンがその人造人間達の性格に気付いて、孫悟空を倒すために旅を続ける彼らに、孫悟空を殺さないように頼んでみたのだが、そこで16号が言った台詞が「ムダだ オレたちは孫悟空を殺すためにつくられた」である。(画像はクリックで拡大)
鳥やら獣を愛し、弱者に優しい16号が、そんな優しい性格ながらも、自分の考えからすれば明らかに意味のないはずの生まれた理由とされている「孫悟空を殺す」にとらわれているのがやたらと印象に残っていたのであった。


一般的な我々のような普通の人間が自身の「生きる意味」とか「生まれた理由」なんてのをはっきりと認識していることなんか皆無であろう。
それは自分で意識できないからこそ様々な悩みの種となったり、何かしらの思考の対象となったりするわけである。
それでも、もし例えば、自分の親や社会から自分の生まれてきた理由を告げられればどうなるだろう?
人造人間16号がそうであったように、それがどんな恐ろしい事であってもバカバカしい事であっても、単純に無視する事は出来ないだろう。
16号が、その自分の生まれた理由が例えどれだけ意味のない馬鹿げたものであったとしても、それが自分が作られた理由であるという以上、それを無視する事は出来なかった。
「生きる意味」とか「生まれてきた理由」なるものは良い悪いとか意義の有る無しなど関係ない圧倒的な魅力と拘束力を持つのであろう。
オウム真理教はその信者に、誰も答える事の出来なかった「生まれてきた理由」を示し「生きる意味」を与えたという。信者たちがその初めて告げられた「生まれてきた理由」と「生きる意味」に抗うのは並大抵ではなかったのだろう。
今となれば、それらはカルトの典型的ないわゆる「マインドコントロール」の手法として一般的に認知されている。
また、今まであまり目にする事は無かったけど、最近やたらと私が身近なリアルな話として聞くようになったのは、その逆説的なパターン、生まれてきた理由を教えられるのではなく、生まれてきた事を否定されるパターンであろうか。
つまりは、お前が生まれてきた来た事に意味はない、お前はいらない子供である。という意味と理由の不在と否定の宣言である。
意味の内容を告げられるのではなく、意味が無い事を告げられるのである。
生まれてきた意味を告げられた事も無く、生きる意味を知っているわけでもない我々からすれば、何をそんなにええ歳までそんな事引き摺ってるねん。と思うわけであるが、これも、一種のそういった「マインドコントロール」ととれなくも無い。
本人がトラウマだとして抱え込んでいる以上、はたから見る以上に中々に根が深い問題なのであろう。
しかし、ここで良く考えれば、それらは全て、全ての人の各々に「生まれてきた理由」と「生きる意味」が存在していると言う前提の下に成り立っている話である。
それがあるとされるからこそ、それを激しく求めて得られず苦しみ、それが得られたと思うと安心し、それを求めない生活をする人を非難するのである。
もし、そのある筈だとされる「生まれてきた理由」やら「生きる意味」がそもそも無かったとしたらどうであろうか?
なんか実存主義みたいな話であるけど、我々が在る事と、我々のある事の意味が全く関係の無い話であったらどうであろう?
我々の存在が先天的に持つはずだった我々自身の存在の意味の存在を失ったからといって、いわゆる一般的に言うニヒリズムに走るのは分かりやすいパターンであるけど、逆に無いからこそ自分たちで作っても良いと言う考え方もあるのではなかろうか。
ある種の人を捕らえて放さない、この「生きる意味」と「生まれてきた理由」なる概念の色々な意味での隷属や呪縛は、そもそもそんなものは最初から存在しないと理解すれば何かしらの開放や自由が得られるのではなかろうか。
そもそもの最初から自分の存在に意味も理由も無い、それは悲しくはあれど単なる事実であるから諦めるしかない。
それを理解しつつも、どうしてもそれでもそれを欲するのなら、無いはずのものを探したり人から教えてもらおうとせずに、ただ単に自分で作ればいいだけの話である。
そういった状態を「人間は自由であるように呪われている」とか言うノーベル文学賞を辞退したフランス人がいた。
しかし、その台詞をかの有名な青木ケ原の樹海の落書きのように、もっとポジティブにとらえることができるだろう。
つまりは、「人間は自由であるように祝われている」とでも言い切ってしまえばよかろう。
である。
気付けばやたらと長い文になってしまった。最後まで読んでくれてありがとう。

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