世界の終わり

今日は休日。起きると激しく良い天気。魚たちに餌を、植木達に水をやる。
魚たちをぼんやり眺めているうちに数時間が過ぎていた。冬になって株数が減っていた「ネジレモ」も暖かくなるにつれ芽を出してきた事に気づく。
フナもメダカもスジシマドジョウもエビも元気に餌を食べている。この閉じた生態系の中で一人の犠牲者も出さずに春を迎えられた事にほっとした。
昼過ぎまでに自転車でお役所や銀行など土日には閉まっている機関への用事を済ませ、そのまま近所を走り回って汗をかいた後、午後から引き籠もる。
好きな音楽を大音量でかけ、部屋の四方の窓をフルオープンにして風を部屋に入れると何とも心地よい。
明るく暖かい部屋の中でウラジミール・アシュケナージのピアノを聞いてるとなんか鬱屈した気分なんかちょっと吹っ飛んだ。


人間生きていれば「不快」や「苦」などいくらでもある。もちろん積極的に行動すれば回避したり乗り越えられたりするものもあるけど、当然時間が過ぎるのを待つしかないような種類の、立ち向かったところで全く意味のない台風や雨降りのようなものもある。
少なくとも俺の場合はそういう時期が訪れると無理に悩んだり嘆いたり何とかそれを取り除こうと奔走したり、またさらに強大な「快」の要素でそれを打ち消すために趣味に打ち込んだり、無理して恋愛したりとすることが多かったような気がする。
こういったことは、たぶん感情や気分を含めた自分に関することは、すべてコントロールできるはずやという感覚から端を発しているのだと思う。
結局の所、なにかを意図的にコントロールしようとすることは逆に自分がコントロールされることになることが多く、無理して外的要因に頼ろうとしても思ったほどの効果が得られないことが多いようだ。
部屋に吹き込む風が気持ちいい、明るい日差しが心地よい、魚がよく餌を食べ、「ネジレモ」が新しく芽吹いて嬉しい、アシュケナージのピアノが素晴らしい。
こういう事は、自然発生的に訪れる極小さな「快」の要素やけど、それらが重なるとそれなりの量の「快」になる。一番重要なのはそれが自然発生的であると言うこと。つまりは不自然な外的要因に頼っていないと言うことだ。
無理してテリトリー外にまで略奪に出かけなくても、ちょっと力を抜いて周りを見回せばいくらでも楽しいことはある。ただ小さすぎて中々目に付かないだけだ。
霞を食べて暮らす道教の仙人のように、ある種の「割り切り」さえあれば、それだけで結構人生が楽しく過ごせるのではないかと思った。

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