桜を見るために早起きする/精神的処世術

最近はずっといつもより15分早く起き、ちょっと遠回りして加茂川沿いの桜のトンネルを通って出勤している。
若いころは、時期的な鬱要素と、その要素と独立している、その季節のみの事象を混同して、鬱要素と関係ない事象そのものが鬱要素になるという逆のフィードバックが起こっていたものだが、おっさんになるとそのあたりは切り離して感じられるようになってきたと思う。
たとえ春が欝の季節であったとしても、春に咲く桜自体は鬱要素でもなんでもなく、春が我々にとって何であるかとは関わりなく綺麗な存在である。ということである。
つまり、たとえわれわれの気分がどうであっても、桜自体は独立して綺麗なのである。
モノそのものをすべての関係性から切り離して独立したものとして見るということは、ひとつの精神的処世術とも言えるかもしれない。
しかし、桜を見るために15分早く起きるなんてことは若い頃にはできなかった。
若い頃は朝の光の中で狂い咲く桜のトンネルを通ることよりも、朝の十五分の睡眠のほうがはるかに大事だった。と最近自分が年をとったことをつくづくと感じるのであった。

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