「芽キャベツ」と「仕様と言い張るバグ」と「平和維持活動の形をとった侵略行為」

23種の野菜が入っているらしい野菜ジュースの成分表を見ていて、その中に入っているキャベツと芽キャベツに「ジュースにしたら一緒やんけー」と突っ込んでいたら、某氏に「いや、幼女と熟女の美味しさは違うはず」といわれて妙に感心した。
が、後から調べると、芽キャベツはキャベツの芽ではなくまったく別の種類だと判明。つまりは芽キャベツとキャベツは「幼女」と「熟女」の違いではなく、「めだか」と「くるよ」の違いであるのであった。
芽キャベツはキャベツの芽に似ているから芽キャベツと名づけられたのだろう。しかし本来「芽」は状態を表す言葉であって形態を表す言葉として使うのは妥当ではない。
たとえば「豆キャベツ」や「子キャベツ」とでもすべきであったものを、「芽」を形態として捉え、「生えてきたばかり」という本来の意味を除外した上で「芽キャベツ」と名づけたところに誤解の生まれる余地があったのである。


我々が何かしらの物や事を見る場合、対象そのものの本質的な状態を捉えずに形だけを捉えて判断しようとすることが多々ある。
そして形態に惑わされることでしばしば本質を見ることができない場合も多い。
例えば、平和維持活動の形をとった侵略行為であるとか、仕様と言い張るバグであるとか、はたから見るとただの不倫でしかない本人たちの言う愛であるとか、ブログ内の日記の形を取った特定の他人に対する罵倒であるとか。
本質と形態が矛盾した状態にあるものは思いのほか世の中に多く、往々にしてそれらはちゃんとした着地地点を見出しにくいものでもある。
最初から相応しい形を作ってその中で本質が出来上がるのが当然ベストであろう。しかし状況的にそれができない場合もある。
どんな形でも良いから枠となる形に入り、形がどうあれその中で本質が育ってしまえば、いくらその形が崩れ去ろうとも本質はずっと残るような気もする。
それらの外面的な見掛けがなくなって、侵略行為がただの侵略行為に、バグがただのバグになれば、世界は平和にはならないかもしれないけど、それでも状況の持つある種の純粋性は増すような気がする。
村上春樹は1Q84で「混じりけのない純粋な気持ちというのは、それはそれで危険なものです。生身の人間がそんなものを抱えて生きていくのは、並大抵のことではありません。」と言っている。
純粋であることは平和であることと真っ向から対立することでもあると思った。
そして、私の書くこのブログという形の中にいる文章の本質はいったい何なのだろう?
更に根本的なところを言えば、数々の外面的、内面的構造の矛盾を抱えたこの私の存在の中にあると思われる本質とは一体何なのであろうか?
そんな事を思った日だった。

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