大局と個別の間には笑えるポイントがある
前のエントリーで想像力が強すぎると、無駄に多くの他人の苦しみと同調して精神的な負荷が高いはずだ。という趣旨のことを書いた。
しかしそれは逆に言うと、当事者にとってはとても大事であるものの、他人からすれば余りに些細なことに過ぎないと感じられる事がとても多いからこそ、精神の安定を保っていられるのだとも言える。
たとえば赤の他人の恋愛や結婚や痴話喧嘩などは当人や関係者たちにとっては一大事であるけど、はたから見ると激しくどうでもいいように見える。
個人を識別できず個性として捉えられない他人の余りにも個人的な事柄は私にとって余りに関わりのないものに見えるのだ。
昨日「嗜癖」についてインターネットでいろいろと調べてリンクを飛び回っているうちに、気づくとセックスレス夫婦の悩み相談BBSのようなところを見ていた。
色々な人の色々なパターンの色々なセックスレスについての大量の悩みはどれも鬼気迫るものがある。そして色々な人が時に真剣に、時には明らかに興味本位と戯れとネタでその悩みに答えている。
当事者にとってこの世の終わりのような深刻さがそこから感じられるだけに、はたから見ていると、そこはかとない可笑しさもまた感じる。
元々表立った事ではないがゆえの表面的なわかり難さ、また当人たちの深刻さと赤の他人の感じる深刻さのギャップがこれほど激しい悩みも余り無いのではないだろうかと思った。
世の中にはありとあらゆる種類の悩みと嘆きと苦しみに満ち溢れている。
それらを遥か彼方から眺めてみれば余りにも些細で取るに足らないものに見えることがある種の救いである。とすることは余りにも一般的であるけど、そんな事が常人に出来るとはとても思えない。余りにも一般的過ぎてもう殆ど暴言である。
しかし、そこまで離れずに見てみれば、あらゆる人間一般の悩みと嘆きと苦しみが、笑えるものにしか見えないポイントというのもまたあるのでは無かろうか?と思った。