想像力は貧困に保つべきか。

毎日の自転車での出勤コースの途中には警察署があって、タイミング的にその前で信号待ちになることがよくある。
信号に引っかかった日は自転車にまたがりながら、警察署に必ずといっていいほどある「昨日の交通事故」の掲示を必ず眺めずにはいられない。
そこには昨日起こった事故の数と負傷者数、そして死亡者の数が京都府下全体とその警察署の管轄区域ごとに三列二行の表で掲示されており、毎日その表を眺めていると、京都府下では毎日数十件の事故が起こり、少なからず負傷者がいることにちょっと驚く。そして時々ゼロではない数値になっている死亡者数の項目を見てちょっとだけドキッとするのである。
自殺者の数は事故による死者よりはるかに多いということは知識として知っていたものの、具体的な数字を知らなかったので調べてみると、年間の交通事故での死者(交通事故が発生してから24時間以内に死亡した人)、つまり警察署の掲示に発表される数は5744人(2007年)である。そして自殺者の数は33093人(2007年)となっており、おおよそ交通事故の死者として表される数の5.7倍の人間が自殺していることになる。
そう考えながら毎日の「昨日の交通事故」の掲示を見るとなんともいえない気分になる。
計算上ではおおよそ一日に90人の人が自殺していることになるが、統計上ではわかっていたつもりのものを毎日掲示として見ているとやたらとリアルに感じられるのである。


私は原付に乗っている時にしか事故を起こしたり巻き込まれたりしたことがないけど、事故の当事者になった時のブルーな気持ちや面倒臭さなどの精神的な負担はよくわかる。毎日数十件の事故が起こっているということは、毎日少なくとも数十人がそんな気分を味わっているということになる。そして時々は事故で人が死んでいるのである。
そしてその数の5.7倍の人間が自殺で自ら命を絶っているのである。自殺したいと思いつめるほどの苦しみは勿論の事、友人や恋人や肉親を自殺で失った友人も何人か知っているが、彼らの精神的な苦しみは私の想像しうる遥か彼方にあるように思える。
こんなことは今更言うまでも事なのかもしれないけど、私のあずかり知らないところでそんな精神的な苦しみを抱えて苦しんでいる人が毎日毎日生まれているということになる。
そう考えればなんか気が遠くなってくるけれど、毎日毎日発生しているであろう見ず知らずのそんな人たちの苦しみを想像して感情移入したり同情したりするのはとても精神的な負荷が高いだろう。
想像力やら妄想力が強すぎるとあることないことを気に病んで、可笑しい位に悩まなくてもいいことで悩んだりしているのは見ているだけで疲れる。
そう考えると、想像力を貧困に保つというのは精神衛生上の処世術となりえるのだと思ったりもした。

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