年末年始とアクティング・アウトとしてのグタグタ

去年、笠原嘉の本を色々と読んで、知っていたつもりでも改めて知ると視界が開けるようにすら感じた概念に「アクティング・アウト」がある。
これは主に精神医学や心理学で使う、患者が欲望や葛藤や苦しみをそのまま言葉としてあらわさずに、一見それらと全くは関係ないように見える行動で表現したり解消しようとしたりする事を指す言葉であるが、それを被治療者が治療者を見る視点ではなく、単純に日常的な他人や自分に対する視点の一つとして意識的に捉えてみると、かなり人が違って見えることに気付いた。
今まで表現されるそのままを受け取って何がしたくて何が言いたいのかが全く理解できず、そのままの意味で捉えようとして悲しくなったり混乱したり苛立ったり腹立たしかったりした他人や自分の言動を、また別の何かの「アクティング・アウト」としての表現だと考えてみると霧が晴れるように色々なものが見えるようになってきたように思えるのだ。
そうして、自分の感情や思いや葛藤が直接的に素直に表現されているのではなく、そういった「アクティング・アウト」として、わかりにくく捻くれた形で表現されているのを色々な人や自分の中に見るたびに、つくづく人間はなんと不器用で孤独なのだろうと、この年末年始に特に思う事が多かった。
結局そうした表現しか出来ないのは、テレであったり、自罰感情であったり、プライドであったり、逃避であったりと色々感情がその上に覆いかぶさっているということなのだろうが、色々な感情と欲望と葛藤が気が遠くなるほど重層的に折り重なって出来ている人間のややこしさがちょっと可愛らしく思える。
この年初めに世紀末から新世紀を共に潜り抜けて散り散りに散っていた古い友人達と久しぶりに集まって昔のように朝まで皆でグダグダしていた。皆が皆それぞれの地獄を抱えている中で、話す内容もやっていることもなんの代わり映えもしないこの不毛なグダグダは、どこにもたどり着かないこそ価値がある。
昔は日常であったことが、今になればとても新鮮に感じる。たぶん今の日常も時間が過ぎて再経験すると新鮮に感じるのだろう。
この古い友人たちの集まりのテーマソングであった北斗の拳のオープニング曲であるTOUGH BOYとチャイナドールをなんとなく聞きたくなった。
人間ってのは、少なくとも私の場合は、大きくて重い何か一つのモノやコトのお陰で生きているのではなく、沢山積み重なった小さいモノやコトのお陰で生きていられるのだなぁと思う。
変わらないようで変わった自分を、変わったようで変わらない自分を感じた年末年始であった。
v(´∀`)見てる~?イェ~イ





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