苦行とトリップについて想いを馳せる金曜日

病気やらなんやらで苦しみやら悲しみに追い詰められれば追い詰められるほど、その反作用のようにとてつもない高みに精神的が登ってゆく人がいるというのは確かだと思う。
それは人間の本来的な性質のようなものであり、苦しみが尊いとされることが多いのは、そういったところに端を発しているに違いない。
そして、こういった肉体や心が過酷な状態に追いつめられると精神的な部分が高まってくる人間の特性を利用して、徹底的に自分を追い詰めて精神を高みに登らせようとする方法論が「苦行」であるのだろう。
一方、神秘体験的なものやヌミノーゼな経験を潜り抜けて、超越的な経験と共に精神的な高みに登ったという人もまたいる。
そして、ドラッグやクスリや何かしらによって、そういった高みに上った時の絶頂感の感覚に近いものを得ることを追い求めるのも、考えてみれば「苦行」と同じような方向性であるように思える。
そう考えると、全く逆の人種であるように見える、インドで苦行ばかりしている修行僧と、アムステルダムでトリップばかりしているガンジャマンは、求めているものの本質がとても似ているようにも思える。


神谷美恵子の『生きがいについて』に

神秘体験ときわめて共通点の多い心理現象がメスカリンやリゼルグ酸の服用によっても生ずることに注目している。それはそれなりに興味深い題目ではあるが、しかしこの種の実験で経験された光の体験や時空の超越や喜ばしい情緒などによって、その後のもののみかたや生きかた全体に大きな変化を生じたということがあったろうか。もしないとしたら、それはなぜであろうか。結局、一時的に特異な心理的体験をするということそれだけでは、生きかた全体の上で大した意味をもちえないのかもしれない。ある特別な心の境地になるということそれ自体を目標として生きることは、うっかりすると目的と手段をすりかえることになりかねない

という話があった。
大なり小なり、色々なアディクションを持ったり、何かしらの依存症に陥るのは、上のように目的と手段がすりかわった結果によるのかもしれない。
上の神谷美恵子の言葉は一読すればとても平凡な意見なのかも知れないけど、私にとっては目の前の視界がさっと開けたような感覚があった。
何かしらへの執着から得られる高揚感自体に依存してしまうのではなく、その事実を通過点や一つの目印のポイントとして捉える事は、その対象自体へのより一層の接近と、より深いレベルでの理解への足がかりであり、そしてその対象そのものを自らの存在に深く結びつける試みになるのではないだろうか。
それを対象というよりも自らの一部と捉えることで、その対象に耽溺するのでもなく否定して切り捨ててしまうのでもないあり方が得られるのではないだろうか。
と思ったこの金曜日自体が、一つの通過点であり、また未来から見れば目印となる一つのポイントとなるであろう。と思ったのであった。



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