神谷美恵子『生きがいについて』/むしろ生きがい系書籍に拒否反応を示す人に

amazon ASIN-4622081814 神谷美恵子の『生きがいについて』を読んだ。
マルクス・アウレリウスの『自省録』は、かなり昔から、私が20歳くらいのふた昔は前からの愛読書の一つであるのだが、神谷美恵子という人は、その『自省録』の翻訳者でもある。
彼女は大学ではずっと文学を学び、ある時から医学部に転部して、最終的には精神科医になり、生涯の使命として、彼女自身の生きがいとしてハンセン病患者の治療にその生涯を捧げた人である。
「戦時中の東大病院精神科を支えた3人の医師の内の一人」、「戦後にGHQと文部省の折衝を一手に引き受けていた」、「美智子皇后の相談役」などの側面も持つ才女でもある。
この本は、彼女が波乱の人生を歩んで、自分の義務を果たし、自らの生きがいと使命としてハンセン氏病患者のために働き出したのを切欠に、自分自身やハンセン氏病患者達の中で問題となって見過ごせなくなった「生きがい」について真正面から向かい合い、ひたすら考察したものである。
最初読む前は、なんとなくエッセイ的なものかなぁと思っていたのだが、実際はどちらかというと論文といっていいくらいにきっちりとした構成と文章で書かれていた。


昔からこの本のことは知っていたけど、『生きがいについて』というタイトルにちょっとした拒否感を感じて読む気にならなかったのだが、なんとなく古本屋で見つけて手に取って買ってしまった。
この本が出版された当時は「生きがい」を直接的に扱ったような本は殆どと言っていいほど無かったようで、この本はそういう意味で「生きがい系」な書籍のパイオニアであるだけでなく、「生きがい」なる言葉に意味を与えた功績もあるようである。
現在「生きがい系書籍」はもうスピリチュアルだの気づきだの目覚めだのと胡散臭くて微妙なものばかりであるが、この『生きがいについて』はそういったものとは一線を画している。
「生きがい」について書かれた本はなんか怪しくて胡散臭い本ばかりだ。と思うような、本当に「生きがいについて」悩んでしまうような人こそ逆に、その真面目で真摯でニュートラルであろうとする姿勢と立場に感銘を受けるであろうと思う。
この本では、現在使い古されて地に堕ちてしまった「生きがい」なる言葉が、まだ本来の美しさを持って使われているように思う。
この本の冒頭で

あるひとにとって何が生きがいになりうるかという問いに対しては、できあいの答えはひとつもないはずで、この本も何かそういう答えをひとにおしつけようという意図は全くない。

と述べられているように、この本は生きがいを求めている人にそれを与えるのではなく、その人が自分でそれを発見するための手助けになるのが最善であるというスタンスで書かれているのがとても好感が持てる。
この本の章立ては
はじめに
1 生きがいということば
2 生きがいを感じる心
3 生きがいを求める心
4 生きがいの対象
5 生きがいをうばい去るもの
6 生きがい喪失者の心の世界
7 新しい生きがいを求めて
8 新しい生きがいの発見
9 精神的な生きがい
10 心の世界の変革
11 現世へのもどりかた
おわりに
という風になっているのだが、最後の章に「現世へのもどりかた」があるのがとても胸キュンである。
10章の人のように、精神的な部分で生きがいを見出して殆ど悟りを開いて精神の中にのみ生き続けしまうような人が紹介されているが、シッダルタのように、ツァラトストラのように、その生きがいを現世で発揮すべく戻って来る人の姿も描いているのがとても印象深い。
読んでいて思うのは、神谷美恵子自身がその「生きがい」についての問いを発し続け、苦しみや悲しみのどん底にいる人と接し続けてきたところから浮かび上がってきた根源的な問いなのであろうということである。
そして、彼女自身が本当に深い部分での経験を潜り抜けてきて現世に帰ってきて、書かずにはいられない思いでこの本を書いたのだろうという気がする。
更に、この本を書いた彼女が彼女自身が自分の体験のみで何かしらの結論を出してしまうような自己満足的な書き方をせず、クールに第三者的に淡々と語る所が素晴らしいと思う。
読んでいて色々と刺激になったりはっとしたりした部分は多かったが、

心の深さというものを、心の世界の奥行きと考えてみることである。視覚によって、ものの奥行きを認識できるのは眼が二つあるからである。つまり二つの異なった角度から同じものをみているから、自分からその物体への距離もわかるし、その物体そのものの奥行きもわかるのである。

という言葉、
そして、

神秘体験ときわめて共通点の多い心理現象がメスカリンやリゼルグ酸の服用によっても生ずることに注目している。それはそれなりに興味深い題目ではあるが、しかしこの種の実験で経験された光の体験や時空の超越や喜ばしい情緒などによって、その後のもののみかたや生きかた全体に大きな変化を生じたということがあったろうか。もしないとしたら、それはなぜであろうか。
結局、一時的に特異な心理的体験をするということそれだけでは、生きかた全体の上で大した意味をもちえないのかもしれない。ある特別な心の境地になるということそれ自体を目標として生きることは、うっかりすると目的と手段をすりかえることになりかねない

なる二つの文が特に印象に残ったのであった。



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