始まりが無いものには終わりも無いのか?/独り夜桜
なんとなくまっすぐ家に帰りたくなくて、遠回りして加茂川の土手の満開のソメイヨシノの群れの下を自転車で走っているうちにふと思いつき、近くでおにぎりと焼きそばパンとミネラルウォーターを買って川原の桜の下で食べた。
周りは暗く見渡す限り誰もおらず、夜桜と川と月と寒いくらいの風と降り注ぐ花びらの中で独り土手の草の上に座って、もそもそとおにぎりと焼きそばパンを食べて水を飲むのは楽しい。
好ましく愛おしいものだけに囲まれて、それらしか目に入らずそれらのことしか頭の中に無い状態は心地よい。
しかし、これは世界の拡大なのだろうか?それとも世界の縮小なのだろうか?
何かしらを自らに取り込もうとする行為なのか?それとも何かを排除しようとする行為なのか?
「始まりが無いものには終わりも無い」 なる言葉はパッと見た感じでは詭弁的な論理命題のようであるが、実際に聞いたり書いたりしてみると「うーん」と考え込んでしまうようななかなかに深い言葉であるように思える。
何かしらが明確に「始まった」事が意識されて認められる場合、たいていは同時に何らかの形での「終わり」や「ゴール」も同時に設定されてるのだとも言える。
しかし、気付いた時にはすでにその状態にあったり、いつ始まっていたのかはっきりしないような、いつの間にかそうであった事物の場合、その状態の明確な「終わり」や「ゴール」を設定してそこにたどり着くのはとても難しい。
というよりも、気づいた時には陥っていた状況が、終わったり解消されている状態や状況を想定すること自体が難しいのだ。
そういったことを前提にして考えてみれば、気づけば陥っていた苦悩や混乱、自己矛盾や自家撞着、或いは執着や希求などといったものに終わりが見えないどころか、それらの解決された姿すら思い描くことができないように感じられるのは当然といえば当然なのかもしれない。
始まりが無かったものに終わりは訪れないのだ。
そもそもそういった種類のものは解決したり解消したり終了させたりする類のものではないのかもしれない。
それは、取り除くことも終わらせることもできない、ただそこにあるもの、もっといえば分離しがたい自らの一部分であるかもしれないのだ。
いつ始まったのか、いつからそうであるのかすら分からない、解決されることはないと確信されている問題、遂げることのできない事がわかっている想い、解消された状態を思い描くことすらできない、終わるとはとても思えない苦悩、そういったものは、解消され解決され終わりが来ると前提すること自体が間違っているのかもしれない。
切り離すことが出来ないものを切り離さなければいけないと思うから、終わらせることが出来ないものを終わらせなければいけないと思うから、解決できないものを解決せねばならないと思うから、遂げることの出来ない想いを遂げなければいけないと思うから、そこに苦が生まれるのかもしれない。
われわれの出来る最善の事は、それから逃れることでも解消することでも終わらせることでもなく、ただ余りにも圧倒的で逃れようの無いものに組み込まれながらも、さらにそれを自らの一部として組み込んで生きてゆくことに対する覚悟だけなのかもしれない。