生きることのゲシュタルト崩壊/洟垂れ短パン夏気分

スティーブ・ジョブズ氏の逝去について親しい友人が書いたブログ記事を読んで心を動かされた。
さっすが僧侶系男子に故人を偲ばせるとスゲーなーと感心しつつも、ジョブズ氏について今まで知っていたはずの事を調べ、聞いた筈の彼のスピーチやらプレゼンを改めて聴き、色々な人が彼や彼の死について書いているのを結構時間をかけて読んだ。
もちろんジョブズ氏のことについては今までもそれなりに知っているつもりだったけど、その死によってその友人の心をここまで動かすジョブズ氏とは一体何者なのかということに改めて興味を持ったのだ。
そして、誰かの死を悼むということは、その人が失われたことが、その人や共同体や社会にとってどれだけ残念で悲しく、どれだけの損失であるか、そしてその人の生きたことの意味を考え、述べそして共有することなんだと思った。
色々な人がジョブズ氏の死について個人的な文脈や社会的な文脈で述べているのを読んで、彼の死がただの社会的偉人の死であったり、歴史上や社会上の出来事だったり損失だったりに留まるだけでなく、ジョブズ氏個人の「生きた意味」をその人個人の「生きる意味」に関連付けて書いている人が多いように思えた。


これは私の偏見ではあるが、ジョブズ氏やApple製品を好きな人は、構造とか仕組みとかロジックとかシステムよりもデザインや機能を圧倒的上位の価値として置くことができる人が多いような気がする。
つまり、極論で言い換えれば、ジョブズ氏やApple製品を好きな人は、世界や人生をちゃんと楽しむことの出来る人であり、ひたすら「生きることの意味」について思いつめて悩むタイプの人が、人生や生をただ楽しむことができずにその意味や苦しみや構造の方に気を取られしまうことが多いのとは対照的に、彼らは「生きること」についても「意味」そのものをひたすら問うというよりは、「生きること」の中にある「楽しさ」や「出来ること」を見出す傾向があると思っていた。
しかしそんな多くの人がジョブズ氏の存在と死を自らの生きる意味と大きく関わるものとして書いているのを読んで、
人が「生きる意味」だけをひたすら追い続けるかどうかというのは、問い自体を持つか持たないか、答えを知っているかそうでないかというよりは、それを自覚的に意識的にしてしまうかそうでないかの違いに過ぎないのかもしれない。と思った。
普段はそんなことを意識していない人でも、何か自分の根源的な部分での危機が訪れれば、その問題と意識的に向き合わざるを得ない。ってな感じで。
本来無意識にあたりまえのものとして存在していたことを意識してしまうと、それ自体に疑問と違和感を持ってしまう。ってことは良くある。
例えば、いつもは意識せずに使っている平仮名や漢字をまじまじと見つめていると、本当にその字の形が正しいのか疑問に思えてくるような、えもいわれぬ違和感を感じることがある。
それは一般的に「ゲシュタルト崩壊」と呼ばれる現象であるが、往々にして「生きることの意味を小一時間問い詰める」ことが混乱や苦悩しか産まないように感じるのは、、答えが無いとか問いが間違っているとかいう問題ではなく、ただ単にゲシュタルト崩壊による混乱にとらわれているだけに過ぎないのかも知れない。
ぼんやり見えるような気がする「生きる意味」を見定めようとして「生きていること」をあまり注視し過ぎると、こんどは「生きることそのもの」の全体性が解体され、解体された細部だけがやたらと目に付き、ますます「生きていることの意味」は見えなくなるというわけである。
「あ」という文字はなぜ「あ」という形をしているのか?本当に「あ」という字は「あ」という形で正しいのか?などという問いには、「それが”あ”という文字だからええんちゃう?」としか答えようが無いように、
なぜ私は「生きている」形をしているのか?私が「生きている」のはこの形で正しいのか?という問いは「それは”生きている”からええんちゃう?」としか言いようが無いのかもしれない。
んま、そんなことはどっちでも良いとして、
「同じ文字を見続けているとその文字がその文字であることに違和感を覚える現象」が「ゲシュタルト崩壊」の一例としてあげられているのをはじめて知った時に「どんな現象にでも名前がついてるねんなぁ」と全く関係のないところでいたく感心したことがある。
最近もうすっかり秋になって寒くなってきたが、私は寒くなった事に慣れずに夏の気分のまま短パンだけで部屋をうろうろしているうちにすっかり風邪を引いてしまい、それでも頑なに短パン一枚で鼻をたらしている。という情けない状態になってしまった。
よく考えれば私はこのようなことを毎年繰り返しているような気がする。
この「秋になったことに慣れずに夏気分で風邪をひき、それでも寒い格好のまま鼻をたらしている」という現象や状態は何も私だけのことじゃなくって、他にも同じようなことになっている人がいるかもしれない。
それを「秋になったことに慣れずに夏気分で風邪をひき、それでも寒い格好のまま鼻をたらしている状態」と呼ぶのは長ったらしいので、ここらでその現象を「ゲシュタルト崩壊」とか「パブロフの犬」とか「シュレーディンガーの猫」のようにきっちりしたそれらしい名前をつけた方がいいんじゃないかとふと思った。
小一時間考えて「洟垂れ短パン夏気分」というのが一番語呂とリズムが良くかつ状況をうまく言い表していると結論付けたのだが、
これはどちらかとういと何か特定の現象を表すと言葉というよりはただの悪口やね…
「やーい、土偶の洟垂れ短パン夏気分ー!」
「えーん(ノД`)」

2件のコメント

  • ありがとうございます!土偶さん!
    また飯行きましょう!
    (ブログ続けようかなぁ)

  • トンカツ!トンカツ!トンカツ!
    きっちりブログ記事にしなくても「~から~のツイートまとめ」って感じの記事でもええじゃないっすかーと思いますです。

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