ロックンロールは鳴り止まないっ/北山紅茶館や辻利でコーヒーを注文するのは反社会的行為なのか?

そういえば以前、久しぶりにの京都の北山にある紅茶を専門的に飲ませる某紅茶館に行った。
いつもは土日でもガラガラといわないまでも駐車場は一杯でも満席になってることなんか殆どなかったのに、初めて席が空くのを並んで待っている人がいるのを見てちょっと驚いた。
基本的にまったりだらだらする雰囲気店で客の入れ替わりもあまりないので、それなりにメニューを熟読したりうだうだ喋りながら、店の雰囲気同様にまったりだらだら待ったのだが、席に着いてそれらしい名前の紅茶とスコーンなる定番のセットを注文した後にふと「あえてホットコーヒを注文するのはいかがなものだろう?」という考えが頭をよぎった。
紅茶専門店で紅茶ではなくホットコーヒーを注文するというちっぽけな反社会的行為にちょっとした魅力を感じた一瞬である。
そういえば、けっこうな昔、たぶん10年以上前に祇園の抹茶パフェでおなじみの某店の長蛇の列に並んだことがあった。
今まで前を通っても人が並んでいるのを見たことが無かったのに、気が付けば人が並び始めたのだが、今思えば丁度あのころがいわゆる「第一次カフェブーム」などと呼ばれるものの始まりであったようだ。


今でこそ人気のあるラーメン屋などは並ばないと入れないというのは当たり前になってきているけど、あのころは何かを食べたり飲んだりするために並ぶということはかなり特殊なことだったように思う。
当時に行列を作って食べ物を手に入れる行為は、美味しい食べ物を食べるための行為というよりは、昔のソ連やルーマニアのような共産主義社会や独裁政権下のモノ不足の中で配給に並ぶ人々を連想させた。
当時、何かを買ったり食べたりするために人が並んでいる様を見た時は「ソ連みたいやww」と突っ込むのがお約束だったものである。
そういうわけであるから、その当時私は抹茶パフェにありつくために一時間以上並ばされ、やっと席に案内された時点で並ばされたこと自体に結構腹を立てていたこともあり、表では配給の列に並びながらも心の中ではチャウシェスクを憎み反政府運動に闘志を燃やすブカレスト市民のような気分になって、
私は同席の皆が泣いて止めるのを振り切って「ホットコーヒー」を注文した。
私「何もメニューに無いものを注文しようというわけじゃない。メニューにあるものを注文して何が悪いねん、パフェなんぞ甘いもん食べれるかい」
友人のみんな「ぐぬぬ…」
という感じであった。
注文を取りに来た店員さんですら「ホットコーヒーですか?」と驚いていたような気がするが、当時の私は「ここでパフェを食べれば負けだと思う」てな事を考えていたように思う。
今思えばなんとも恥ずかしい中二病的な行為であるけど、既成の価値に巻き込まれながらも心の中ではそれを拒絶するという行為だけをとってみればなんともロックな行為である。とは言えなくも無い。ただロックな魂の矛先の向ける方向を根本的に間違っていただけである。
そして、十年以上たった今、美味しい紅茶を飲んで「あーコレはコーヒー注文しなくてよかったわー」と思いつつも、実際行動に移すことは無いにしても頭の中で「紅茶専門店でコーヒーを注文する」という感覚がちゃんと生き残っていることも意識した。
年を取って色々な状況に巻き込まれ、言ってる事もやってる事もオッサンオバハン化して、丸くなったとか変わったとか守りに入ってるとか言われながらも、実は心の中はみんな殆ど変わっていないんだろうなぁ。
なんてことを思ったのであった。
でも、天一で「あっさり」を注文するのは、全然ロックじゃないと思います!

2件のコメント

  • おーロックですなぁ。
    私も勇気を出して注文してみようかと思います。
    とりあえずスタバでココアを頼むところから…

  • ぼくもコーヒー専門店で紅茶をたのんだり、また紅茶専門店でコーヒーをたのんでしまったりします。どちらにしろロックな行為には変わりはないような気がします。

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