固茹で世界

一般的に世の中はぼんやりとではあってもその中に価値や目的があるように捉えられているのは間違いないわけで、人間のそういう物があって欲しいという感情や欲求の傾向から言ってもそれは至極当然の事であるように思える。
価値も目指すべき物も無くなった世界でどう生きていけばいいのかって事を本気で考えてあげくに発狂してしまった、自分をデュオニソスになぞらえていたドイツ人がいたが、考えてみれば、世界を根本的に無価値で無目的的であると捉える事がそこの出発点であるからして、そこの所の認識がない限り、スタート地点にすら立てないと言う事になる。
強く意識しないまでも世間の大多数の人は世界に意味も目的もあるようにぼんやりとでも思って、ある程度受け手入れているわけで、そもそもニヒリズムの玄関すら見えていない事になる。価値はあるはずだ、目的もあるはずだと潜在的に感じているからこそ、問い自体が妥当性を持たず、そういった事の欠落感からの困窮も、創造の必要性も感じないわけである。
一方で世界や自分自身に一般的に言われるような価値が見いだせず、また一般的に言われるような目的も望めない人もいるわけで、そういう意味だけから言えば「ニートが第三の変化を経てニーチェになる」という話もあながち間違いではなさそうだ。


しかしながら季節ごと、時代ごとに変わる流行という何ものかに作られた価値を追い(後れた価値は惜しげもなく捨て)、特に目的もなくだらだらとただ日常を生きる生活を送る人は、逆にニヒリズムを体現しているとも言えなくもない。
価値や目的の本質に鈍感であるがゆえであるが、その人にとって価値に見える物は余りに流動的であり、目的のない事自体が目的になっているような様は、価値がある事や目的がある事を否定する以前に、価値自体、目的自体の語用的な意味を否定しているように見え、価値や目的などという概念がそもそも存在しないとする立場に見えるのだ。
宗教的な立場と見解が世界にある事を度外視した上で、誤解を恐れずに言えば、世界には本来的に絶対的な価値や目的などありはしない。別の言い方で言えば、絶対者を設定することなく、万人に共通する価値や目的は原理的に成り立たない。
一つの価値や目的をひねり出したところで、それらを根本から否定する理由などいくらでも思いつく事が出来るし、一人の人間の幸福は何人もの不幸の土台の上に成り立っているわけで、一つの目的と一つの価値には百の反証と百の害悪があることになる。
想像力を働かせてみれば、なにかしらの価値、目的はすべからく「自分にとって」あるいは「特定の集団にとって」の域を出ないことになる。
なんと自分や自分の属する集団の価値や目的が普遍的であると吹聴する輩の多い事か。それに引き替え自分の価値と目的を秘めたる物として慎ましやかに恥ずかしげに追い求める人の健やかで美しき事よ。
言うまでもなく、世界は本来的には醜い側面を持っている。強者が弱者を採って喰う根本原理からしても、実際に目に映る事実としてもそれはある程度疑いようはない。
だからといって「この醜い世界に価値や目的などあるものか」と結論づけてしてしまうのも間違いである。それはただの認識であり結論ではないからだ。
世界や自分に対して持っていた価値を失う事。世界や自分に課していた目的を失う事。そして世界の無価値さと無目的さへの確信。
そういった物を抱いて初めて立てる地平、目指せる大地があるのではないか。ニヒリズムの地平は結論ではなく、それらの大地を目指すのスタート地点ではないだろうか。
また本来は結論であったはずのそういった価値や目的の喪失から目指せる場所を設定したニーチェはなんと偉大なことか。
などと思った花の金曜日の夜。

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