ゼロの発見、車輪の発明

起きたら夕方の六時。せっかくの休みがもったいないとかダメ人間まっしくぐらとか言う以前にただただ驚いた。
15時間もの間ひたすら惰眠を貪っていたという事になるし、何一つ見た夢を覚えていない。睡眠と言うよりは昏睡という方が近いかもしれない。
睡眠とか夢は体や脳を休息させると同時に記憶の整理を、いらない物は捨て、いる物は残してと言う感じで行っているらしいけど、これだけ寝ればせっかく覚えたり思いついた色んな事を「あーこんな余計なもんいらんいらんー」とばかりに脳が勝手に捨てたりしたのではないかと不安になったが、何を忘れたかを覚えている道理はないわけで、まぁ心配してもしょうがない。


最近大学院で研究生活に励んでおられる諸氏のホームページなどを読むにつけ「一つの事をゆっくりじっくり勉強するような事が無くなった。なるべく早く何かの結果を出してそれはそれで終わりと言う事ばかりだ」と思うようになり、その事を某氏に言ってみたところ「それはそういう事を求められているからではないか?」と言われ「うむぅなるほど」と思った。
確かに次々とこなすべき事が現れ、発生する問題に対処し、何ものかを創造し続ける仕事という物はある意味では「なるべく早くなるべく正確に」が求められるわけで、いくら大学という環境であってもある程度はそういう事になる。
そういう世界にいると「到達感」よりも「スピード感」に快感を覚えるようになるわけで、せめて仕事をしていない間はそういう風になりたくないなぁ。と思う。
言うまでもなく人間の記憶に使用できる領域は有限である。コンピューターを使う上での知識や記憶や知恵の方向性というものは、いかに有限の自分の記憶領域に余計なデータを置かずに、外部記憶領域のナレッジデーターベースに効率よくクエリを発行できるか。と言う事にあると思う。
余計な事は覚えるだけ損。使える知識と知恵は必要に応じて外部から持ってくる。車輪から発明する必要はない。頭は創造的な所に使おう。と言う事で言ってみればオブジェクト指向なんかな??
コンピューターの世界では何とかサーバーやなんとかシステムの構築にしろ、詳しいconfやパラメーターを暗記せずとも「マニュアルやwebで調べれば出来る」と言うレベルでもある程度「デキる」レベルに認定されるわけで、それは「細かい事はいちいち覚える必要はない」と言う事もあるけど、根本には「出来ればいい」という見方があるように思う。
しかし、日常生活や深い探求のレベルでオブジェクト指向であれば、それはただの受け売りとかパクりとか呼ばれるし、出来ればいいというレベルで片の付くような事は少ない。
「個体発生は系統発生を繰り返す」という真理もあるわけで、人間の成長とか精神の発達には、ゼロの発見、車輪の発明を自分の中で行う必要があるのだろう。
amazon ASIN-B00008KJU5Keith Jarrettの「The Koln Concert」を聞いた。
コンサート会場での即興曲であるゆえの深い緊張感があったからこそ、深く内面に降りて行くかようなトーンが生まれた。
人間の哀しさと偉大さを体現するかのような、このピアノの音が大好きだ。

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