クンデラ的不滅的問題
2006年7月4日
依存性を減らしてゆく事が前進なのか?
依存性を獲得してゆく事が前進なのか?
それとも依存性の種類を変えてゆく事が前進なのか?
判断を誤れば、成長しているつもりが実は後退していたという事も大いにありうる。
何かを目指していたつもりが全く見当違いだったと言うこともありうる。
俺には全く判らない。考えれば考えるほどわからない。
というよりも、依存性を前進か後退かという問題で捉えるのが間違っているのか?
それを苦楽の問題として取り扱うとしても、前進的な苦と後退的な楽を苦楽の基準のみで判断するのが妥当だとはどうしても思えない。
それとも、何でもかんでも、どちらかに振り分けようとするのが間違いなのか?
とにかく自分が何かしら混乱していると言うことだけは良くわかる。
こんな時に急いだところでロクな事は無い。
水を飲めゆっくり歩け。と言ったのは誰だったか?
Vladimir Ashkenazyの演奏する、ベートーヴェンの「表題つき」ピアノソナタを聴いた。
俺にとってアシュケナージの演奏がベートーヴェンのピアノソナタの基準となる演奏。もうCDが焼け切れそうなくらい聴いている。
聴けば聴くほど、つくづくルートヴィヒは苦悩の人だったのだと感じ、背筋が伸びる。
いくら時間が流れても変わらないものがある事を感じ、古典的不滅を愛する自分がいる事を感じる。
そう感じるのはなかなか心地良い物である。