Waltz For Debby

久々に京都駅へ繰り出すものの、金曜日とあって凄い人の数。
どういう因果か普通のOLなる人種と話す。
なるほど彼女たちのうちの特定の人間が服やらカバンやら化粧に凝るわけが理解できた。
おおよそ彼女たちを話の内容と考え方で識別する事は非常に困難である。しかもそれが短い時間に限られてしまえば尚更個性なるものが見えてこない。
同じテレビを見て同じ歌を聴き、同じ週刊誌を呼んで同じ映画を見ていれば、当然と言えば当然か。
一番手っ取り早く個人を他人と識別して差別化する事になるのが見た目と言う事であろうか。
見た目によって人の個別化がなされ、その見た目によって個別化された個人の善し悪しや価値も決定される。
そういう基準と判断に決定を任せた世界に彼女たちは同意し、そして住んでいる。
いずれにせよこれは俺の言いがかりである。
少し話しただけで見た目以外で個人を識別する、微妙な差異を見分ける才能のない俺の言いがかりである。
該当するOLの皆様にくれぐれもお気を悪くなされないようにお願いする次第である。


それでも、見た目で悪い方に差別化されるのは望ましくないだろうし、美しくないよりは美しい方が良いのだろう。と言う事が確かに間違いないのは同意する。
しかし、ある種の美しさは純粋な力でしかないものがあり、時にそれが暴力的なまでに力を発揮する。
暴力は暴力を駆り立て、暴力は暴力を生む。
そして、当然の事ながら、暴力からは何も生まれない。
上手く行って数日間の痛みを、下手すれば一生ものの傷跡が残るだけだ。
しかしながら、「何も生まれない」事自体が価値を持つ事もまたある。
不思議な事に、そういった事が必要になる瞬間もまたあるものだ。
変わらない日常、どんどん消耗してゆく実感、日を追うごとに軽んじられる自分の価値と存在、旅行するためにただただ生きている?負け犬?売れ残り?年を取る事は悪なのか?
なるほど、日々そういう負い目を追い続け、そういう目で見られていると思うのは辛いものだろうと想像する。
しかし、そんな事は世間が言う事であって、それが正しいかどうかなんかわからない。
少なくとも本人が言うべき事ではないし、そんな価値を本人が認める必要は無い。
押しつけられようとする認める事の出来ない価値は否定するしかないし、ふざけた価値を否定するのは善ですらある。と思うしかない。
紀元前に「エウ・ゼーン」(善く生きろ)なる価値を作った哲人がいたが、もはやその価値は死に絶えたのだろうか?もう痕跡すら残っていないのか?
などと思った長い長い夜だった。

4件のコメント

  • ん〜そういわれれば大した違いなんか無いような気もしてきました。
    人間そんなに違いなんかありゃしないのでしょうか。やっぱり。

  • (私含む)土偶さんの周りの人たちも、京都駅の人たちも・・・紙一重ですよ~(笑)

  • たしかにそれはそれで大変ですなぁ。
    その京都駅のある集まりで普通の人達ばかりと喋っていて、いかに私の周りの人が変わってるかというのがよく解りました。
    ありがたやありがたや?

  • 最近、私も京都駅行きましたよ~。
    何と言うか・・・型にはまった格好をしなくてはいけないような気にさせられました。
    周りに合わせる人には、そういう差別化に敏感に反応していくしかないんでしょうね~。

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