串串串

五人でLANケーブルを拭いている時に、車輪の発明やサルが芋を洗うといった文化革命や文明の進歩の瞬間を目の当たりに経験した。自己の存在を揺るがすかごときの大発明であった。
仕事後に食べ会の為に街に繰り出す。中学時代からの友人が勤めている会社の店の前を通り過ぎ、奴のことを考えていると信号待ちでその彼に肩を叩かれてびっくりする。人生満更捨てたものではない。変わらない事がここにある。
いつもの友人たちといつものように騒ぐ。変わらないいつもの風景。変わらない事が善である場合の具体例である。
そんな喧騒の中、傭兵仲間の近況をちょびっとだけ聞く。聞いていればいつもどうしてわざわざそんな宜しくないものばかり選ぶのかと思わざるを得ない。自分の価値を求めずにはいられない人間は不幸である。「私は欝である」と表現することができず、いつも明るく社交的に振舞う人間は果てしなく不幸である。
どんどん追い詰められる様を見るのは何とも辛いものである。「一定の集団の中における幸福の和は一定である」という言葉が頭に浮かぶ。
変わらない事が悪である場合もまたあるのである。


経験的に言って、大抵の場合「自分は優れた人間である」とか「自分には価値がある」という大きな勘違いから、結末は千差万別にしろ殆どの不幸と破滅は生まれる。
数多くの宗教が「自らの卑小さの認識」を強調するのは、直接的に人生役立つアドバイスとしての意味としても受け取れる。
しかしながら死なずにいるために、自分を肯定して生き残るために、それは一番簡単で陥りやすい平素な道でもある。
抱える地獄の形は人それぞれでも、自分を焼き尽くそうとする地獄の火の勢いが人それぞれでも、地獄を抱えない人間などいない。
当然、愛するべきものと愛するべき事だけが人生と世界と自分に満ち溢れているのかといえば否というしかない。
愛するべきものは確かにある。しかしそれは余りにも少ない。
その愛すべき一つのために、その他憎むべき数多くのものの存在が必要なのだとしたら、そんなものは最初からいらない。
某ニーチェーさんの言うように、生きる事を愛するように見える人は、生きる事に慣れたのではなく、愛する事に慣れているからのように、私にも見える。
食べ会後、冷たい風を切って家に向かってゆっくり自転車を走らせる。
参加者各々の背負う十字架と、歩んでいるゴルゴタの丘への道行きと、その内に煮えたぎる地獄に思いを馳せて祝福を贈る。
自分が卑小であり無価値であるところから来る価値付けの原理が激しく求められると、楽しい楽しい食べ会の後、自転車のペダルを回しながら思った。

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