惑い多き春の日

前日に実稼動しだした構成や環境の威力を思い知って、「おーすげー。これは、よー出来てるわー」と感心すると共に感動する。
これの完成を彼岸から眺めていただけやけど、シンパシーだけは感じているので喜びと嬉しさもひとしおである。
この間一緒に卒業生を見送った某氏を、今度は私が見送る事になったのは目出度いばかりである。
何事も遅すぎるという事は無い。春という欝の季節を巡る良いニュースの最たるものである。
とにかくわっしょいわっしょい。


送別会で今まで殆ど話したことがなかった人と本について共鳴する波長で語り合う。世界は広い。こんな小さな世界でも色々な人間がいる。色々な人間がいるけど、その色々で同じカタチのものは殆ど無い。
珍しい人間は本当に珍しい。そしてその事に気付いた時に色々な事は大抵遅すぎるのである。
色々な人が色々な事を言う人を、私はどうしてもその「色々」だとは思えない。
その人と私の利害関係が皆無であるという事もあるやろうけど、個人と個人の関係性を条件判断の材料にするのが何がいけないのだ?
私にとって、私との関係性において好ましい部類に属する人が、他人にとっての他人の関係性の範囲で好ましく無いとしても、結局その人が判断されるのは私との関係性のレベルである。
そして大抵の場合相手が歪んで見えるのは、自分の目が歪んでいる場合が多い。他人の歪んでいる可能性がある視点と自分の確実に歪んだ視点なら、自分の歪んだ視点の方がまだ良い。
もっと自分の感性とものの見方を信じた方が良いと思った。もっと自分の感覚器官と判断機関を信じてやれよと。
最近忙しくて殆ど喋る機会のなかった人と喋る。知らない間に大きな環境の変化を報告され、その重みにとてもとても激しく動揺する。明らかに言外に含まれるであろうと拡大解釈したくなる意味が大きく膨らむ。
混乱、迷い、希求が一気に押し寄せてくる。その人にとって外面的にはお悔やみするべきはずである事であるけど、驚きと共に肯定的な言葉を思わず口にしてしまう。不意打ちで思い止まる暇もなかった。
そして、それは口にするべき言葉ではなかった。
とっさに反応して薬室に弾を送り込んで撃ち返しそうになる自分を抑えつつも、ちょっとした流れに飛び込みたくなる自分を感じる。
とにかく私には相応しくないのだ。それだけははっきりしているし、既に結論も出ている。彼岸は彼岸であるべきなのだ。
彼方と此方を感情だけで連結するのは良い事ではあるはずがない。
何かについて遅すぎるという事は決して無いのを感じた日であるし、色々な事はもうすでに遅すぎると感じた日でもあった。自分の感情を信じようと思った日であるし、自分の感情だけに従ってはいけないと思った日でもあった。
そのどれもが正しいし、どれもが間違っているとも言える、惑い多き春の日であった。

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