「非」で規定される存在が「在る」こと

「ハッカー」ならびに「ハック」という言葉がある業界と業界の外では殆ど正反対の全く違う使われ方をしているのは有名な話である。
同様に「ソフィスト」と言う単語は古代ギリシャの職業的哲学者を指す用法が一般的であると私自身は思っていたけど、実際の所ソフィストはソクラテスにボロクソに批判された詭弁家の側面もあるわけで、人に対して「ソフィストのようだ」と言ってしまった後で、それが思いっきり失礼にあたってしまう言い草であった事に気付いた。
何も知らない人が言うのなら兎も角、哲学の基礎素養があると自称している人間の言うこっちゃ無いわな。
更には私は言葉を大事にしていると自称している人間でもあるにも拘らず、余りにも適当に言葉を使いすぎである。
もっとちゃんと物事を考えて言葉を選んで喋らんとあかんなぁと激しく反省したと同時に、自分の思う哲学の基礎素養が偽物かも知れないという疑いを強くした。


話は全く変わる。
以前から私は引きこもり、フリーター、ニートなどと呼ばれる方向での社会不適合者を自認する者の味方であると公言している。というか私自身がそういう傾向性を持つ人種であると考えている。
彼らに対して、彼らがそういう状態にある責任のすべては、そういう状態を選択した彼ら自身にあり、同情と理解は必要ない。という言い草を他人が行うのは絶対に受け入れられないのである。
また、立場の弱い被雇用者が不利な就業条件を受け入れて働かざるを得ない状況は、本人が納得して雇用契約している以上不満や苦痛に思うのは間違っている。とする見方も受け入れがたい。
論理としてはその通りだとしても、心情的に正義とか善とかシンパシーとか同情の段階で受け入れられないのである。
なによりも、そういう責めを行っているのは当事者自身であろうというのが良くわかるし、ただでさえ自分で自分を責めてるのに、それ以上に同じ事で他人に責められるのはちょっとしんどすぎるし可哀相過ぎる。
しかし、引きこもりやニートやフリーターは怠け者であると断じ、貧乏や底辺を余儀なくされている人間は環境や条件の悪いところで働くから悪いと断じる人間にとって、私のこういったどちらかと言うとウェットな見解は論理的には勿論、心情的にも全く理解できないものであるらしい。
そして、彼らにとって社会は、それを構成する個々の人間が変わることによって「変わる」ものではなく、外圧的な何らかの力によって「変える」ものであると認識されるらしい。「正しい必要悪」は形容矛盾とはならないらしい。
私の感じた所を言えば、富に始まる様々なものの不均一な分配が彼らを潤す限り、私たち弱き小さな人間が、彼らの側の人間に隷属せざるを得ない社会が変わることは殆どありえないだろう。
しかし、そんな彼らに対して敬意を払い、同情を注ぐのが我々の美点でもある。
甘すぎる?ルサンチマン?本当の苦しさを知らない?贅沢病?
大いに結構であるが、ルサンチマンだけは丁重にお返しする。

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