池田 晶子 陸田 真志 『死と生きる―獄中哲学対話』
ちょうど一ヶ月ほど前に死去した池田晶子と、拘留中の死刑囚である陸田真志の往復書簡を集めた本である。
この本が出版されるに至った事の発端は池田晶子の著作を読んで感動した陸田真志が出版社に対して礼の手紙を書いた事に始まる。
体裁が陸田真志の文章を池田晶子が助言して導いていくような形になっているけど、メインは陸田真志の展開する思考になるのではないだろうか。
人を殺し金を奪い店を乗っ取って死刑判決を受けた人間が、自らの行為を悔いて振り返った上で哲学的な土俵の上で展開する、死、善、生、罪などのテーマはかなりヘビーである。
しかし、いわゆる一般的な犯罪者のお涙頂戴な懺悔手記とは全く趣は異なっている。
一番重きを置いて語られるテーマは「善く生きる」と「死について」という事になろうけど、これは読みようによっては激怒する人間が多いに違いない。おそらく、彼の立場の彼のような人間がそのような事を言うのは、一般的にはかなり「不敬」な事になるのやろう。
しかし、彼の真摯な姿勢からは真実を見ようと己の生命と存在の全てを賭けようとするものの迫力がひしひしと伝わってくるし、彼の手紙に対する池田晶子の返礼も容赦なく真剣で切り伏せるようで、読んでいて息詰まる緊張感に満ちていた。
昔、私が大学生の頃に「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いが流行った事があったが、池田晶子はその問いを発した時点で殺してはいけないのを知っている。てな事を言っている。
その問い「なぜ人を殺してはいけないのか?」は「殺してはいけない」のを前提にその理由をたずねているだけであり、それに答える事が出来ないのが「人を殺すのは正しい」と言う結論を導くのではなく、「なぜ殺してはいけないのかは論理的には説明できない」という結論を導くだけである。
そして、理由は言えないにしろ、その論理を超えた次元で、「人を殺してはいけない」と先天的に知っている事こそが、人間の善性であるというと言うところがキモになるのだろう。
そしてその「人を殺してはいけない」という命題が、善性によってのみ導かれる論理性をもたないものであるがゆえに、人を説得する効果はなく、自分に対してのみしか働きかける事が出来ない。
だからこそそこで紀元前500年もの昔から叫ばれている「善く生きる」が必要となってくるのである、と言うところの論理がわかりやすかったと思うし、人を殺し、自分もまた死刑になろうとする人間がそういう事を語るのは重みがあるだろう。
池田晶子は語りを騙りと称して人の口を借りて自説を展開するのが得意だと良く述べていた。
そういう意味で、彼女の良く言っていたことである、死は恐怖ではないというところの言わんとすることは良くわかったし、論理を超えた認識であるとか、善の知覚であるとか。
そういったところが理解しやすかったのではないだろうか。