「お笑い的世界観」と「筋トレ的世界観」

今日で私が担当する最後の新入生向けの「寄席」であった。時間が短すぎて「客いじり」の余裕が殆どなかったけど、お客さんはちゃんと聞いてくれていたので満足である。
昔、力仕事をなんでも「筋トレ筋トレ」と喜んでやる友人がいた。
仕事でモニタ運びやPC運びを頼んでも、一緒に別の友人の引越しを手伝いに行っても「筋トレ筋トレ」と嬉しそうであった。
この「筋トレ的世界観」からすれば、力仕事は楽しい作業で、世界に存在する「重たい物」の全ては自分を鍛えてくれるために存在するわけである。
世の中や世界と言うのは、まともに向き合えば何とも判断しがたく、考え込んだり頭を抱えたりせざるを得ないものである。おおよそ我々の理解を超えているし、どう見ても醜いとしか思えない。
「筋トレ的世界観」はそんな世界を優しく見るための世界解釈の一つである。価値転換によって世界を変換する試みの一つである。


同様に、人生にはどう転んでもトラブルと対立にしかなりえないような事が起こりうる。
善か悪か、正しいか間違っているか、敵か味方か、損か得か、YESかNOか、そんな判断基準と価値基準では、どうやっても対立は深まり、トラブルは増え、事態が好転する事がありえないように見える事がある。
そんな時に世界の全てを「笑けるか笑けないか」で判断してしまおうという方向性を持つ「お笑い的世界観」はどうだろう。
全てのトラブルはコントと化し、罵倒や反論はツッコミと化す。
仕事が出来ないのも遅いのも、性格が捻じ曲がっているのも腐っているのも、全てはツッコミ甲斐のあるボケである。何物をも、自分をも笑い飛ばそうとする限り、世界はバラ色である。
とりあえず、色々なものがくすぶりつつある今、それを「壮大なネタ」として解体する事で、武装解除を目指す事ができるのは「お笑い的世界観」以外の何物でもないのだ。

「わたしがわたしの悪魔を見たとき、悪魔はきまじめで、徹底的で、深く、荘重であった。それは重力の魔であった。―かれによって一切の物は落ちる。怒っても殺せないときは、笑えば殺す事ができる。さあ、この重力の魔を笑殺しようではないか!」

フリードリッヒ・ニーチェ『ツァラトストラはこう言った 上』 p65(氷上英廣訳、岩波文庫)

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