オレオレ定言命法

倫理的に非難されるべきであるとされる行為に設定される罪深さの度合いは、その行為を行う人間とその行為を判定する人間の両方の立場にかなり大きく左右される。
例えば、AとBが行為Cを行う場合、Cという行為がAにとっては何の問題でなくても、BにとってはDとの関係性から問題が生じる場合がある。
言うまでもなくこれはそこら辺で日常的に勃発している問題の単純化された図式である。
となると、AはBとDの関係性を考慮した上で行為Cを行うかどうかを検討する必要があるわけやけど、結局その判断もAとBあるいはAとDとの関係性のレベルでの話となってくる。つまりは行為Cの道徳的な判定はA、B、D各々の関係性の次元に集約されてしまう事になる。
有効的な倫理観が個人的な関係性に大きく影響されているのが事実だとしても、それを前提にした判断、他人同士の関係性ではなく、自分の直接的な関係性からのみ判断すべきであるというのもまた別の倫理的な基準に乗っているわけで、結局はモラリティーなんてものは人からウダウダ言われたところでどうにも違和感がある。自分の道を信じて歩むしかないということだろうか。
とはいっても、ごく一般的に流布している道義性なるモラリティーに絶対的な基準が無いのは、まぁあたりまえではあるので、法律や条令などの縛りが無い道徳レベルの事どもを「全ては許されている」と解釈してしまうことが多いわけやけど、これは逆に言えば「全ては許されない」ということにもなりえる。
道徳的に正しいとされる行為は、特定の範囲内でのみ善とされる行為であるという妥協の産物でしかありえないわけであるし、許さない人が一人でもいれば「全ては許されている」状態は成り立たないわけで、構造的に全ての人間にとって道徳的なレベルの行為は「全ては許されない」事になってしまう。
それはそれで、他人に「全ては許されない」状態は非常に悲しいわけやけど、どうせ他人から許されないのなら、自分が納得できるようにやりたいのも人情である。
そういうわけで土偶は「わが上なる輝ける星空とわが内なる道徳律」以外ではテコでも動かないのである。
でも「色仕掛けならいとも簡単に動く」という仮言命法も私の意志の格率に定言命法として入っているので、なんだかやっぱり破綻している。ってのが本当の土偶の姿のようである。

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