待ちながら待つ

サミュエル・ベケットは『ゴドーを待ちながら』でいつかしら来るであろうと思われる「ゴドー」なる何ものかを待ちながら無駄話を続ける二人の男を描き、J.M.クッツェーは『夷狄を待ちながら』でやがて現れて自らを滅ぼすであろう野蛮人を待ちながら享楽にふける民政官を描いた。
人間にとって何かを待つという行為は色々な意味で象徴的なのだろうし、そう言う目で見て見れば、確かに皆何かしらを待っているように見える。
特定の何か、漠然とした何か、日常を超越する何か、日常を固定してしまう何か、などなど。
この日の飲み会で色々なわけのわからないノリに肩の上まで浸かってシンクロし、わかり易くも無茶苦茶な様々な欲望が渦巻くのを渦の直ぐそばで眺めていると、何故か非言語的な個人理解の視点が開けるような気がしてくる。
至高のものを求めているはずの、日常を超越する何かを漠然と待っている人は、はたから見ていると破滅を待っているようにしか見えないのがとても不思議だった。

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