放射性崩壊的個人史観
2007年5月17日
自転車に乗ろうとしたらパンクしていたけど、替えチューブを持っていなかったので自転車を押しながら歩いて帰ったのだが、いつもなら15分ほどの道のりを一時間かけて歩くと実に様々ないつも目に付かないものが見える。
風景しかり町並みしかり。そして金星。昔持っていた星座板はどこへ消えてしまったのだろうと思う。
時を経るごとに失われてゆくものと、時を経るごとに獲得されてゆくものがあるけど、これは「時」自体の持つ対人影響性ではなく、人間が常に変わるからであろう。
変わる事が無ければ失うものは無い代わりに得るものも無い。「変わる」というのは元素でも分子でも人間でも大抵の場合外部からの刺激によるものなので、異物の少ない狭い世界をぐるぐるループしていれば外部からは安定した分子のように見えるだろう。
しかしながら生きているだけで失うものがあれば得られるものもあるのはもうどうしようもない。そのことを肯定的に捉えるか否定的に捉えるかは自分の一生を進歩史観的に捉えるか衰退史観的に捉えるかの問題やろうね。
どんどん変わろうとする人がいれば、全く安定を保つ事だけを考える人もおり、他人から多くを取り込もうとする人がいれば、他人に影響を与える事だけを考える人もおり、他人と全く接点を持とうとしない人もいる。
そのあたりは分子運動のようなもんである。
見ていれば、どんどんヘリウム原子核を外部に打ち出してどんどん細って行くアルファ崩壊のような人もいれば、ガンマ線だけ出して自分は変わらずに他人を替えてしまうガンマ崩壊のような人もいる。
私の場合は色々な物を取り込みつつも私自身は何も変わらない、電子を取り込んでニュートリノを放出する、質量自体は変わらないベータ崩壊のようなものであろうか。